―大和の現世利益のお寺4・信貴山城の事など
近世後期から近現代の信貴山真言宗の現世利益霊験隆盛とは裏腹に沿革や各時代の状況は、度重なる火災によって記録が乏しくはっきりしない。
文献を探ると『宇治拾遺物語』(1212-21年頃・197話収録)の話を20余収録する『古本説話集』(1130年頃・後年加筆)に信貴山と命蓮の話が見えている。同時期の12世紀初期成立の『今昔物語集』巻十一「修行僧明練信貴山を建つるの話」として〝明練登山して石櫃の上に護世大悲多聞天と記されているのを発見しその上に堂宇を建立した〟『説話集』も大要は同一である。
本堂出土〝泥塔〟や〝延長七(929)年歳次己丑〟銘金銅製鉢の存在から堂宇を建立し平安前期には寺観を整えた事を示す。この事は、『国宝信貴山縁起絵巻』三巻(1150-60年代・12世紀後半成立・鳥羽僧正覺献製作)の〝命蓮〟の説話絵巻詞書とも符合する。即ち〝信濃国の命蓮法師が京に上り、大和に来歴して東大寺で授戒後信貴山に登って修行、毘沙門天王を得て堂を建立し法験をあらわした〟と記す。命蓮は、前述の『宇治拾遺物語』巻八「信濃国の聖の事」に生き生きと描かれながら年譜等不詳の僧である。常陸国の人であったり、明練・明蓮・命れむと記され信(志・深)貴が河内国山中と成っていたりする。
命蓮時代の寺の様子は、承平7(937)年大和国に差し出した「信貴山寺資材寶物帳」に寄れば諸檀越施入の山地田畠等が延喜16~承平6年に大和国平群郡・廣瀬郡に4、河内国若江・渋川・高安・安宿部郡に6の二千余町を領有していた様だ。寛平年中(889-98)毘沙門天一躯安置の円堂一宇のみであったのを延喜年中(901-23)に金剛界成身會五佛安置の檜皮葺3間四面庇本堂建立、延長年中(923-31)に改築5尺金色釈迦佛・普賢文殊造佛を加えた。堂舎は、〝五間僧坊・三間東屋僧坊・三間東屋中坊・五間東屋客坊・五間西経所・三間毘沙門堂・大湯屋二宇〟と記録される。釈迦三尊を納めて僧坊・中坊・客殿などと寺観の様子を伝える。命蓮が信貴山で誰について学んだかははっきりしないが、室町期の画像に貞観年中(859-77)〝勸算という人物〟が寺を盛り立てたと記し、命蓮がやって来た時わずか毘沙門天を祀る堂一宇だけと伝えるのは勸算時の名残なのかも知れない。
鎮守が〝山王権現〟とあるので、天台系僧侶とも考えられている。山岳密教の道場・修験道の宿としての性格を持ち叡山天台から、葛城修験勢力下で真言宗になったと思われる。当時の建築部材であろうと推定される、二上山産凝灰岩(ドンズル峯・白)の石材を行者堂近辺で、確認したことがあった。何れにしても寺自身命蓮上人によって寛平~延喜年間に開かれたと考えられ、その当時の様子が「寶物帳」で知ることが出来る(前身寺院の志貴山寺の創建は詳らかではないが、筑前大野城と同様新羅呪詛に対抗する為、高安城の異国祈状の目的で〝四天王を祀る寺(四天王の寺)〟が建てられたと推定する説もある)。
その後鎌倉期には、大和諸寺院同様一貫して興福寺末寺化で、大乗院支配を受け法相・真言兼帯寺院であった様だ。寺内には数十の堂塔・院坊があり、学道履修の「學衆」と山伏聖の「禅徒」が存在した。〝千体地蔵と称する〟鎌倉期の多数の阿弥陀・弥勒・地蔵の箱形龕佛や室町期の五輪塔・舟形五輪・長足一尊板碑等の墓石集積を見る限り、堂周辺の尾根筋部には中産階級らの墓地が散在していた事を物語る(惣墓成立前夜の状況として興味深い)。虚空蔵堂前には当時の〝十三重石塔〟も現存する。楠木正成の生母が信貴山毘沙門天に祈願して誕生したので、正成幼名を〝多聞丸〟と名乗ったと云うのは有名な話である。
南北朝期は『太平記』によると元弘の役後、〝大塔宮護良親王〟が陣を構え應永2(1395)年本堂焼失したと伝え、宝物中に〝兜・菊水軍旗・袖1双・喉輪1懸(重文)〟が現存している。多門院英俊らの『大乗院寺社雑事記』(1450-1527記録・重文190冊)によると文明15(1483)年2月、本覚院より出火して三十坊炎上後、明応8(1499)年復興と記す。また16(1484)年には〝學衆と禅徒が闘争〟し、學衆が離山、學衆坊を焼き払ったと記録される。
〝木澤長政〟は、河内高屋城の守護畠山義英臣から細川高国・細川晴元被官へと渡り歩き一向一揆などを平定し出世を果たして〝河内・山城南部の守護代〟になり、天文5(1536)年頃飯盛山城を拠点に二上山城と共に〝信貴山に城〟を築いたとする。天文11(1542)年3月の〝河内太平寺の戦〟で、三好長慶・細川・遊佐連合軍に敗死し、城も落城している。信貴山往還路は近世信貴山堺参道そのものが使われたのであろう。
戦国動乱期には武田信玄の四天王信仰を示す文書が伝わり、帰依を裏づける。その後、大和制圧を目論んだ〝松永弾正久秀〟により永禄3(1560)年、軍事的目的の大和拠点として〝信貴山城〟を築城、国人衆を集めて〝信貴在城衆〟を結集させている。城は、信貴山山頂から寺と反対北面の平群久安寺・信貴畑の尾根上に展開し、中心部の南北880m・東西600mの範囲でも扇形の曲輪が110以上確認される(平群方面から山を望むと雄岳や北側の平坦面の様子が目視出き、大和を睨んでいる事が容易に判断される)。寺南東中腹には〝立野城〟(1980年消滅・現城山台住宅地)、信貴山堺街道傍路に〝南畑ミネンド砦〟(1988年消滅・現のどか村)、大坂側には〝高安山出城〟の支城を構築、寺を取り囲んだ範囲に及んだ〝大和中世城郭最大の城〟であった様だ(一時永禄6年筒井氏・永禄11年三好三人衆三好康長の手中に落ちており、寺にも被害が出たのは想像に難くない)。寺の快僧快信も活躍するが、天正5(1577)年10月織田信長に抗し、織田信忠方軍勢により〝子息久通〟共々敗死し落城した。その折り城下や六十余坊あったとする堂舎も兵火にかかり灰塵に帰したらしい。
その後は本堂棟札による処、慶長7(1602)年豊臣秀頼(奉行は地元領主片桐且元)により本堂が復興したらしい(寺伝秀吉説は誤説)。今も剣菱の寺紋に加え五三桐が瓦当等使用されているのはその為である様だ。
近世期に至り、興福寺一乗院・大乗院末寺に属して、寛永9(1632)年の『興福寺末寺調』によれば、寺内二十坊・山下七ケ寺と記録される。法隆寺元禄大修理の余韻で、桂昌院寄進による修理を伝え崇敬を受けた様だが、目立った遺構はない。以後、現世利益を希求する商人らの願いを受け止める毘沙門天信仰により、現在残る堂宇が寄進を見、参道が整備されている。釼鎧堂・開山堂(享保17(1732)年・本堂村教心坊他2名)・虚空蔵堂・三宝堂・絵馬堂(安政(1854-60)年間・大坂堂島木綿屋梅蔵)・行者堂・一切経蔵・鐘楼(貞享4(1687)年)・多宝塔(元禄2(1689)年)・仁王門(宝暦10(1760)年・大坂宝栄講、大正11年移築)・赤門(寛政5(1793)年)・大坂型狛犬・本堂(延享3(1746)年大修理昭和26漏電焼失、寄付1億6千万で33年再建)・本坊(安政(1854-60)年間・木綿仲間)などである。また旧参道の丁石(寶永5(1708)年・寛政期(1796-1803)年)・道標や境内に残る旧参道玉垣群(安政6(1859)年整備)・燈籠にその痕跡を認めるが、調査や言求するには及んでおらず消滅の一途を辿っている。
明治1(1868)年の「神佛分離令」を受けた維新後の廃仏毀釈運動で打撃も被るが、残った僧侶の努力と信者の支えで、宿坊経営の継続・現世利益の寺としての復興を遂げた。
増加する参拝客を輸送する為大正11(1922)年には、信貴生駒電鐵による大和参道の新ルート、王寺-山下駅(現信貴山下駅)・山下-信貴山駅の東鋼索線、大坂参道の新ルートが昭和5(1930)年に大阪電気軌道によって信貴線山本-信貴山口駅(東高安駅)・信貴山電鐵による西鋼索線信貴山口-高安山駅・山上鐡道線高安山-信貴山門駅路線が開通した。この時期大和参道拡幅新設が行われ、参道沿いにあった茶屋が山上に集結、料理屋・旅館・飲食店街の門前町を形成した(戦後経済成長期には、山上鐡道跡地が有料道路信貴生駒スカイラインとなり、拡幅大和参道が信貴山観光道路となる)。
毘沙門天は勝負事、あらゆる願いを聞き届ける神として根づよい信仰を堅持し続け、戦後の昭和26年、高野山真言宗から独立して27年信貴山真言宗総本山を打ち立てるに至っている。
【freelance鵤書林250 2020/6/28いっこう記】
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