いかるが風景奥の院・安堵92020.05.20 04:31切手になった大和棟・国重文中家住宅―大和中世環濠居館 上窪田・中窪田・下窪田(平楽寺)・北窪田・板東(板ケ屋瀬)垣内の大字窪田は大和盆地の標高最低位に位置する。上窪田垣内の「国指定重要文化財中家住宅」屋敷は、二重の濠に囲まれ外堀の内側は竹藪となり、内堀が鉤手に屋敷を取り巻く。中世...
いかるが風景奥の院・安堵82020.05.20 04:18安堵の一本木と高塚・馬場塚と―飽波(あくなみ)郷名所旧蹟 太子道が西名阪自動車道と交差する処が〝安堵の一本木と高塚〟である。一本木の大木〝栴檀(せんだん)の木〟は昭和28年の台風で倒れてしまって今は無い。根本の南側に大石がある。此の下に〝太子が可愛がっていた鷹を埋めた〟と言い伝え...
いかるが風景奥の院・安堵72020.05.20 04:06極楽寺・廣島大佛の寺―飽波(あくなみ)郷名所旧蹟 東安堵の「極楽寺」は、聖徳太子創建と伝える縁の寺で〝大御堂〟と呼ばれたと云う。寺家六坊を擁したが、貞享4(1687)年には東之坊を残すだけとなったと記録される。現在は真言宗国分寺派。 本尊は、北門右手本堂安置の藤原期国指定重要文化...
いかるが風景奥の院・安堵62020.05.20 03:53近代陶芸の巨匠富本憲吉生家―飽波(あくなみ)郷名所旧蹟・記念館とうぶすなの郷宿泊レストランと 昭和30年我が国最初の〝人間国宝〟(重要無形文化財技術保持者:色絵磁器)に認定され、36年文化勲章・従三位勲二等旭日重光章受章「富本憲吉(とみもとけんきち)」は、我が国近代陶芸の巨匠とし...
いかるが風景奥の院・安堵52020.05.20 03:31今村文吾と晩翠堂―天誅組を支えた名士家 今村文吾(いまむらぶんご)は、今村家の当主として、文化5(1808)~元治1(64)年の幕末を生きた。本業の医業の傍ら「私塾晩翠堂」を主宰した儒学者であった。伴林光平とも深い親交で知られ、光平敗走の折り今も残る長屋門脇茶室丸窓から文を投げ入...
いかるが風景奥の院・安堵42020.05.20 03:15安堵の藺草作りと灯芯―東大寺修二会への献上灯芯 斑鳩安堵地域では、近世以来泥田水田を利用して裏作として藺草栽培が盛んだった。畳表はもちろんだが、多くは燈明や和蝋燭の灯芯(藺草の表皮の中の髄)としての生産だ(『和漢三才圖會』では〝燈心草〟と紹介)。 明治15・16年の記録で生産千貫...
いかるが風景奥の院・安堵32020.05.20 02:57奈良県再設置運動の恩人今村勤三と医学功労者大阪帝大総長今村荒男生家―安堵町歴史民俗資料館 今村勤三(いまむらきんぞう・嘉永5~大正13年・字は敏平・雅号「松屋」)は、明治から大正期の今村家の当主である。文吾(雅号「宗博」)の弟〝専次郎「宗愷」と智加子〟の三男二女の次男として東安堵...
いかるが風景奥の院・安堵22020.05.20 02:40筋違道(すじかいみち)の太子道―飽波(あくなみ)郷名所旧蹟 大和の南北幹線道路は8世紀の古代都城制道路を踏襲して、〝上街道・中(橘)街道・下街道〟が近代までを道幅を減じて利用される。更に東西幹線道路は新益京時代の〝横大路:伊勢街道〟・春日一の鳥居を起点とする〝三条通:暗越え奈良街...
いかるが風景奥の院・安堵12020.05.20 02:25安堵広峰神社と郷社飽波神社―飽波(あくなみ)郷名所旧蹟 広峰神社は、太子道と業平道の結節地にあり、飽波神社が元々あった元社とされ、太子の居た飽波葦垣宮跡であるとの説もある。近世には境内地158坪・氏子9戸の式外村社〝牛頭天王社〟である。 慶長3(1598)年の「安堵社神験記」によ...
最古の厄除霊場と参詣道J-42020.05.19 21:09こいずみ新参道―小泉出雲の大和小泉城と片桐小泉藩と 旧片桐町(現大和郡山市小泉町・昭和32年編入)は、中世衆徒小泉氏の本貫地であり、近世片桐小泉藩の陣屋と城下である。 小泉氏は、龍花院(正暦寺)新田〝下司(げす)〟として登場し、中世期〝興福寺大乗院方〟の被官としてこの地を支配した...
最古の厄除霊場と参詣道J-32020.05.19 20:46うぐいす鳴く珍なる山里―大字白石畑 矢田丘陵(標高250m前後)に所在の〝うぐいすの鳴く里山〟、斑鳩町大字白石畑(戸数19軒+平群町属6軒。北・東・南垣内の散村)がある。村は長らく「興留村属白石畑」(枝郷『大和志』)。法隆寺駅在所の興留村飛び地(富郷村属)で、明治20年の飛び地交...
最古の厄除霊場と参詣道J-22020.05.19 20:09松尾寺表参道丁石道―参拝は法隆寺から 丁石(ちょうせき)とは、名刹寺へ至る道標(みちしるべ)で距離を示す。距離を減ずる場合と増すものがあるが、此処は前者で法隆寺三町・東門の20丁(約2.1㎞)が起点となっている(東大門前に「左松尾道」の道標あり)。 徒歩(かち)が交通手段であった...