いかるが風景奥の院・安堵1

安堵広峰神社と郷社飽波神社―

飽波(あくなみ)郷名所旧蹟

 広峰神社は、太子道と業平道の結節地にあり、飽波神社が元々あった元社とされ、太子の居た飽波葦垣宮跡であるとの説もある。近世には境内地158坪・氏子9戸の式外村社〝牛頭天王社〟である。

 慶長3(1598)年の「安堵社神験記」によると飽波垣内の氏神(現素戔嗚尊牛頭天王社)は、寛弘3(1006)年恵心僧都が極楽寺再興した折り、ここより遷宮したものであるとし、年代は不明乍らその跡地に播磨姫路〝広嶺山の広峰社を勧請した〟とする。

 鳥居前の井戸は、〝業平姿見の井戸〟とも〝太子鑑井戸〟との伝承する井戸があり、水は涸れることが無いのだそうだ。拝殿には明治期の大絵馬13点を見る事が出来る。社の宮寺は薬師如来を本尊とする万福寺と云ったらしい(その建物あり)。経塚とする青龍之塚〟がある。

 太子道と東安堵・西安堵集落の衢に位置する「郷社飽波神社」は、近世には〝牛頭天王社〟と称し現在の祀神は〝素戔嗚命〟。「極楽寺日記」によれば「極楽寺・常楽寺・御厩堂」は宮寺であったと云い、極楽寺が神宮寺として奉仕して来た。『大和志』に「飽波邑坐神祠 邑属安堵村今称牛頭天王神護景雲元年四月幸飽波宮即此」と記し『続日本紀』に見る767年4月26日に称徳帝が行幸した〝飽波宮〟に比定している(太子の飽波葦垣宮とも絡まって斑鳩町東福寺枝村神屋処との在地を巡って昔より議論がある)。

 社殿は一間社春日造りで、元和3(1617)年以来の棟札があり、慶長18(1613)年の鰐口があった事が知られる(當麻寺蔵)。拝殿には幕末から明治期の大形奉納絵馬を見ることが出来る(西南戦争なども)が、中でもナモデ踊り図奉納絵馬と用具・衣装の関連資料(宝暦6(1756)年奉納)が〝有形民俗文化財〟の指定を受けている。

 〝ナモデ踊り〟とは、国中地域で「南無天踊り」などと称された中世期の伝統を引き近世近代と踊られた雨乞い踊り・勇踊り(いさみおどり)である。平成7年、100年の時を経て有志により復原復活され、10月下旬に奉納される(伴林光平も「神椙帳」で文久1年踊られた実験記を残している)。

 鳥居の〝扁額は、富本憲吉の揮毫〟によるものだし、境内には太子休息腰掛石〟もある。

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