いかるが風景奥の院・安堵4

安堵の藺草作りと灯芯―

東大寺修二会への献上灯芯

 斑鳩安堵地域では、近世以来泥田水田を利用して裏作として藺草栽培が盛んだった。畳表はもちろんだが、多くは燈明や和蝋燭の灯芯(藺草の表皮の中の髄)としての生産だ(『和漢三才圖會』では〝燈心草〟と紹介)。

 明治15・16年の記録で生産千貫以上の村を挙げれば、吐田(5,400)・結崎(1,200)・保田(1,500)・小柳(1,600)・五百井(2,000)・法隆寺(1,500)・高安(1,000)・興留(1,300)・岡崎(1,600)・東安堵(6,000)・西安堵(2,000)・窪田(6,000)・小泉(5,000)・小林(1,500)・筒井(1,500)である。一貫は3.75㎏なのでその量がわかる。

 法隆寺三町の一つ〝藺町(いのまち)〟の存在と今と違った別の物語が想像される。その伝統を昭和30年半ばまで「安堵とうしみ」として生産し続けていたのは安堵の人々である(灯芯を取り出す〝灯芯引き〟は女性の内職仕事であったが、43年を最後に生業はされていない)。その産業技術も昭和一桁生まれの子供世代には受け継がれたが、絶えようとしているので、平成27年安堵町は「灯芯引き技術」として町無形民俗文化財に指定した。現在は、技術を受け継いだ12人の高齢者灯芯保存会(会員42人・会長馬場昇氏)〟が町歴史民俗資料館水田で藺草栽培と体験会・練習会で年間20足(500本一束)程生産している。

 東大寺修二会・法隆寺で使用する灯芯は、元来東安堵の名家より寄進されたのであるが、それも数年前に絶えた。東大寺修二会別火では〝灯芯揃え・花揃え〟と云う準備行事(非公開)があって、行事使用目的に応じて灯芯を切り揃え灯芯箱に納められる。

 蛇足ながら、明治初年山城に灯芯の行商に赴いた東安堵の岡野某によって〝グロ(畦畔)〟での梨栽培が持ち込まれ、宮島栄太郎「大和梨栽培大要」を契機として、安堵は県下最大の生産地になり明治39年には県内の1/6を占めている。背景には龍田町〝稲葉車瀬〟と同様国鐡関西線法隆寺駅からの大阪中央市場への輸送力にあった。悲しいかな、先の戦時の米食糧増産命令で全て伐採撤去されたと云う。

 先人達が見た藺草刈・藺草干、梨花畑・実りという風景が広がっていたのである(資料館体験会は毎月開催・要予約・入館料が必要)。

【freelance鵤書林238 いっこうK4記】

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