いかるが風景奥の院・安堵5

今村文吾と晩翠堂―

天誅組を支えた名士家

 今村文吾(いまむらぶんご)は、今村家の当主として、文化5(1808)~元治1(64)年の幕末を生きた。本業の医業の傍ら「私塾晩翠堂」を主宰した儒学者であった。伴林光平とも深い親交で知られ、光平敗走の折り今も残る長屋門脇茶室丸窓から文を投げ入れたと云う話が伝わる。

 東安堵村醫師で大和中宮寺侍醫である今村仙治郎の子で、勤三の伯父にあたる。京の山脇元沖(東海)に醫學を学び、巌垣松苗に儒學を学んだ。24歳で安堵に戻り、天保3(1832)年〝晩翠堂〟を開いた。門下には、尊王攘夷の志士〝三枝翁*(青木精一郎)〟・〝平岡武夫(北畠治房)〟・〝大西滝三(六代源助)・中村順三・佐々木信重・崇阿上人・三陰顕成〟など近在の武士商人の他、勤三を始め今村家の人々がいる。伴林光平は和歌を教えた。

 文吾は尊王派で、安政大獄の弾圧を逃れて大和入りする志士を庇護したと言われ、天誅組大和挙兵にあたり軍資金を送っている。伴林の死後の翌年、後を追うように57歳で歿した。

 何れにしても、今村文吾から発せられた〝血の系譜〟は近代化日本の智の系譜に繋がっていったのである。文献:「晩翠堂の最大遺産-今村文吾の偉業-」『EUNARASIAQ』8 奈良県立大学 2017(vol.10 2018再録)

【freelance鵤書林239 いっこうK5記】

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