いかるが風景奥の院・安堵8

安堵の一本木と高塚・馬場塚と―

飽波(あくなみ)郷名所旧蹟

 太子道が西名阪自動車道と交差する処が〝安堵の一本木と高塚〟である。一本木の大木〝栴檀(せんだん)の木〟は昭和28年の台風で倒れてしまって今は無い。根本の南側に大石がある。此の下に〝太子が可愛がっていた鷹を埋めたと言い伝えられ、「タカ塚が高塚になったと云う(鷹狩をした殿様と云う説も)。

 「馬場塚」は、中窪田の藤原末期の最古級二上山凝灰岩製の十三重石塔(供養石塔・現存7層)がある杵築神社角の公民館南東水田中の〝窪田の栴檀一本木〟の場所に残欠石材を重ねた五輪塔がある(〝五輪塔地輪附馬場塚〟として町指定文化財)。台石上に反連弁台座2基+地輪+水輪+宝篋印塔傘+風空輪を重ねる。地輪に「前敬礼司 氏勝墓民部少輔甲陽武田家臣百廿騎之大将仕信虎公信玄公勝頼公而有戦功後依信玄公之命改馬場美濃守信房矣戦于三州長篠引率七百人初戦既得勝敵者多勢而十倍於味方勝頼公諸勢不得防而敗北於是美濃守討死于時天正三乙亥年五月廿一日」とあり、甲斐国武田勝頼重鎮で長篠合戦敗死した「馬場美濃守信房」の墓だとも供養塔だとも窪田馬場姓の住人は伝承する

 また安堵には、通称ヤップ山と呼ばれる処が、平安期陰陽師の安倍清明と術くらべをした〝芦屋道満の屋敷跡〟と云う伝承もある

 これらの話は、何故面積4.31k㎡・人口7,470人の町(3,471世帯、全国最小面積自治体・大阪忠岡町・三宅町に次ぐ)に歴史的根拠を見いだせず疑問を抱くばかりである。

 蛇足乍ら、西安堵に生まれ富本に憧れ影響を受けた、地元デザイン画家辻本忠夫(明治26~昭和56年)は県立農業学校から大阪市立実業学校専門部図案科を卒業し、花や彫刻など様々なスケッチを残していることが知られている。先に取り上げた梨の包装紙のデザインや新制安堵中学校校旗校章の鷹は、この〝高塚の伝説から図案化したものである。

【freelance鵤書林242 いっこうK8記】

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