奈良県再設置運動の恩人今村勤三と
医学功労者大阪帝大総長今村荒男生家―
安堵町歴史民俗資料館
今村勤三(いまむらきんぞう・嘉永5~大正13年・字は敏平・雅号「松屋」)は、明治から大正期の今村家の当主である。文吾(雅号「宗博」)の弟〝専次郎「宗愷」と智加子〟の三男二女の次男として東安堵村北垣内一統の村役今村家に生まれた(4代千助・明和8年没から今村姓)。
〝勤三とさき〟の五男六女の四男が「今村荒男(いまむらあらお)」である(勤三家の男子は三輪明神の払詞〝幸男〟(さきお・東京帝大法科卒・信託銀行制度生みの親で住友信託㈱初代会長)・〝奇男〟(くすお・東京帝大工科卒米国留学・紡績業界重鎮で大日本紡績常務)・〝和男〟(にぎお・河合家、宮内省諸陵寮長)・〝荒男〟(あらお・東京帝大医科卒・大阪帝大第5代総長今村内科)・〝愷男〟(やすお・中山家、丹波市町長・奈良県農業會会長)に由来する)。
勤三は、晩翠堂で経史を修め撃剣を学んだ。明治4年21歳で里正・翌年戸長となる。6年第三大区第二小区副区長・9年第一大区第三小区副区長・添上郡ほか4郡郡書記。14年、31歳で大阪府会議員当選・翌年大和国15郡人民総代となって上京(内務卿山田顕義に分縣請願書提出・16年第2回請願書提出却下、再三再四の建白)。苦節、明治20年11月4日勅令第59号にて奈良県設置が認められたのであった。大阪府より分離独立再設置(全国で最も遅い46番目成立)12月1日をもって新制奈良県が発足(勤三はじめ設置運動推進者の告示県議会議員当選35名)。21年奈良県議会初代議長・22年帝国憲法発布式参列を許され、明治23年第一回衆議院議員選挙最高点で当選(国民党後改進党・犬養毅・尾崎行雄と共に政界巨星と称せられた)。
また、家計の立て直しに松山へ移住して愛媛県鐡道事業に関わり、25年奈良鐡道会社(京都-奈良-櫻井間)社長。初瀬鉄道敷設、30年㈱奈良県農工銀行取締役・36年郡山紡績社長などの事業を進めた実業家でもあった。蛇足乍ら13・14年の〝自由民権運動〟最高潮の頃、奈良県で初めての日刊新聞「養徳(やまと)新聞」も勤三が発行し、奈良県の独立を提唱している。大正13年10月26日逝去。享年73歳。
大和一国の統一奈良県は廃藩置県の後僅か4年余、明治9年府県改廃整理で廃止となり「堺縣」に吸収、14年2月には「大阪府」に合併されたのである。〝今村勤三いなくば今の奈良県無し〟の奈良県再設置独立運動の恩人・立役者で、同志を取りまとめた(〝恒岡直史〟(天保11~明治28年・芝村生まれ・明治13年堺縣議員議長・大阪府会議員議長・2代目県議会議長・享年56歳)、〝中村雅真〟(嘉永6~昭和17年・奈良町生まれ・明治17年大阪府会議員、奈良帝國博物館學藝委員・享年90歳)、〝平山平八郎〟(弘化2~昭和5年・長柄村飯田家生まれ田村中山家養子・明治14年大阪府議会議員・奈良県議会議員、明治27年衆議院議員、丹波市銀行創設・初瀬鉄道敷設・享年86歳)が協力した)。
一方今村荒男は、大阪帝國大學(大阪大学の前身)第5代総長で昭和35年勲一等瑞寶勲章〝文化功労者〟である。日本で初めてBCGの人体接種を行い、結核発病予防効果を科学的に証明し、不治の病結核予防にBCG接種を確立した事、早期発見のX線間接撮影装置の車両を立案した事でも知られている(日本結核病学会に「今村賞」がある)。
勤三苦難松山移住時の明治20年10月、四男に生まれている。明治37年郡山中学校を経て大正1年東京帝国大学医学部卒。2年医科副手となり附属病院勤務。3年から伝染病研究所で狂犬病を研究・技師長、11年「狂犬病ヴイルスの試験管内培養に就いて」医学博士、ワクチンの製造。14年大阪醫科大學教授。昭和2年欧米各国へ出張(3年帰国)。6年大阪帝国大學教授(15~18年附属大阪微生物研究所所長)。22年大阪帝国大學総長・奈良県立醫専學校校長兼務。24年大阪大學学長。26年日本學士院会員。27年〝なにわ賞〟、37年大阪市民文化賞受賞。法隆寺や中宮寺信徒総代を務め、府立成人病センターの所長でもあった。42年6月13日、79歳で歿す。正三位に叙され、法名「天荒大仁永康居士」で安堵町阿土墓地に眠る。
安堵町歴史民俗資料館は、今村家から町が寄贈を受け竹下内閣ふるさと創生1億圓事業で平成5年10月開館した。〝今村勤三・晩翠堂と大和天誅組・安堵灯心・民俗に関する展示〟と年二回開催する地元に根差した企画展・定期的体験講座を行う博物館相当施設である。展示図録・年報・紀要などの刊行物は未だない実態で、世に知られていないのが大変惜しまれる。
【freelance鵤書林237 いっこうK3記】
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