信貴山毘沙門天〝戒壇めぐり〟再開(いっこう寺社解説25)2020.06.19 10:49―大和の現世利益のお寺3 信貴山歓喜院朝護孫子寺は現世利益の祈祷寺で知られている。昭和33年再建の舞台造り本堂では、本尊毘沙門天王(秘仏(寅年限定開帳)・中立(毎年限定開帳)・お前立)・吉祥天女(妃)・善戝*師童子(子)前内陣では、10-15毎時一山僧侶に...
朝護孫子寺の塔頭大本山寺院(いっこう寺社解説24)2020.06.15 12:52―大和の現世利益のお寺2 信貴山朝護孫子寺へは、近世期から近代には大坂側から京街道教興寺から分岐の〝大坂参道〟と奈良街道柏原市村から分岐の〝大阪堺参道〟、大和側は奈良街道勢野から分岐の〝大和参道〟と當麻街道大田口追分よりの〝大和南参道〟の丁石道が整備されていたが、知る人も皆無にな...
信貴山 朝護孫子寺(いっこう寺社解説23)2020.06.15 12:38―大和の現世利益のお寺1 俗称「信貴山寺、信貴山毘沙門天王、寅の寺」で名が通ている信貴山真言宗総本山(真言宗18本山の一つ)〝朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)〟は、意外と正式名を使う人が少ない。俗世間では〝あさごでら〟などと似非事を云う社会的著名人の発言を聞いた時など呆れてしまう。...
聖徳太子の聖蹟といかるがの里風景散策2020.06.03 22:35400字ミニ解説駒塚・調子丸墳:元来「駒塚」は全長60m程度の古墳時代中期前半(4世紀後半)の二段築成小型前方後円墳。地域の小首長墳墓である(町史跡)。東水田中に存在する「調子丸墳」は、現存径約14m・高さ約2.5mの円墳。普通円筒・器財埴輪を伴う5世紀の中期古墳である。駒塚は『...
法隆寺を支えた宮大工の郷と国宝藤ノ木古墳散策2020.06.03 22:11400字ミニ解説西岡常一:〝最後の法隆寺大工〟で、唯一の斑鳩町名誉町民・文化功労者である。法隆寺村西里大工の嫡男として明治41年出生。鵤番匠の伝統を受け継ぎ幕末から法隆寺に仕えた一つ西岡家の祖父(伊平常吉)に師事し、父と共に宮大工の伝統技術を学ぶ。昭和9年から始まった国家事業・県...
いかるが風景奥の院・安堵92020.05.20 04:31切手になった大和棟・国重文中家住宅―大和中世環濠居館 上窪田・中窪田・下窪田(平楽寺)・北窪田・板東(板ケ屋瀬)垣内の大字窪田は大和盆地の標高最低位に位置する。上窪田垣内の「国指定重要文化財中家住宅」屋敷は、二重の濠に囲まれ外堀の内側は竹藪となり、内堀が鉤手に屋敷を取り巻く。中世...
いかるが風景奥の院・安堵82020.05.20 04:18安堵の一本木と高塚・馬場塚と―飽波(あくなみ)郷名所旧蹟 太子道が西名阪自動車道と交差する処が〝安堵の一本木と高塚〟である。一本木の大木〝栴檀(せんだん)の木〟は昭和28年の台風で倒れてしまって今は無い。根本の南側に大石がある。此の下に〝太子が可愛がっていた鷹を埋めた〟と言い伝え...
いかるが風景奥の院・安堵72020.05.20 04:06極楽寺・廣島大佛の寺―飽波(あくなみ)郷名所旧蹟 東安堵の「極楽寺」は、聖徳太子創建と伝える縁の寺で〝大御堂〟と呼ばれたと云う。寺家六坊を擁したが、貞享4(1687)年には東之坊を残すだけとなったと記録される。現在は真言宗国分寺派。 本尊は、北門右手本堂安置の藤原期国指定重要文化...
いかるが風景奥の院・安堵62020.05.20 03:53近代陶芸の巨匠富本憲吉生家―飽波(あくなみ)郷名所旧蹟・記念館とうぶすなの郷宿泊レストランと 昭和30年我が国最初の〝人間国宝〟(重要無形文化財技術保持者:色絵磁器)に認定され、36年文化勲章・従三位勲二等旭日重光章受章「富本憲吉(とみもとけんきち)」は、我が国近代陶芸の巨匠とし...
いかるが風景奥の院・安堵52020.05.20 03:31今村文吾と晩翠堂―天誅組を支えた名士家 今村文吾(いまむらぶんご)は、今村家の当主として、文化5(1808)~元治1(64)年の幕末を生きた。本業の医業の傍ら「私塾晩翠堂」を主宰した儒学者であった。伴林光平とも深い親交で知られ、光平敗走の折り今も残る長屋門脇茶室丸窓から文を投げ入...
いかるが風景奥の院・安堵42020.05.20 03:15安堵の藺草作りと灯芯―東大寺修二会への献上灯芯 斑鳩安堵地域では、近世以来泥田水田を利用して裏作として藺草栽培が盛んだった。畳表はもちろんだが、多くは燈明や和蝋燭の灯芯(藺草の表皮の中の髄)としての生産だ(『和漢三才圖會』では〝燈心草〟と紹介)。 明治15・16年の記録で生産千貫...
いかるが風景奥の院・安堵32020.05.20 02:57奈良県再設置運動の恩人今村勤三と医学功労者大阪帝大総長今村荒男生家―安堵町歴史民俗資料館 今村勤三(いまむらきんぞう・嘉永5~大正13年・字は敏平・雅号「松屋」)は、明治から大正期の今村家の当主である。文吾(雅号「宗博」)の弟〝専次郎「宗愷」と智加子〟の三男二女の次男として東安堵...