〝佐伯定胤〟命名〝阿摩池〟―
日本初近代防災施設水源地
寺山の乳母ケ谷に昭和2年7月に完成(起工式大正14年11月・落慶式昭和3年4月11日)した池が、〝阿摩池(あまいけ・〝阿魔〟では無い)〟である。堰堤高さ22m(71尺)・長さ27m(88尺)・馬踏幅5m(17尺)、貯水総量55萬立方尺あり、寺社に於ける日本初の近代防災施設の水源地である。
名は、管主佐伯定胤 (さえきじょういん) 師が大乗佛教の〝阿摩羅識〟如来思想〝心は本来清浄である〟との考えの命名だと言う。施設は、梵天山中継貯水槽を経て1.5㎞を鉄管の導水管によってサイホン方式で水を送る構造で、放水栓は90箇所設けられ、京都帝国大学工学部大井清一教授が設計指導した。上水道が整備されだす40年も前の話である。水圧は勢いよく、五重塔の上まで水煙を上げる写真が残されている。
毎年金堂壁画焼失(昭和24年)日、1月26日に寺で行われる消防署・消防団結集の「文化財防火デー(昭和30年制定)」の訓練さながらの完成行事であった様だ。ここから国家を挙げた法隆寺保存の近代事業・世界遺産への道がスタートすると言っても過言ではない。池には装飾が施された取水塔が建ち、今も現役だ。
昭和22年の三町村合併騒動の仲裁〝斑鳩町〟の提案者でもあり、斑鳩町の父でもある存在の狼下の事績を示す。
佐伯定胤(慶応2~昭和27年・雅号は「不東」)大僧正は、法隆寺村並松の嘉平の次男に生まれる。近代法隆寺の祖〝千早定朝〟(文政6~明治32年)の後を継いで法隆寺管主になり、荒廃甚だしい近代法隆寺一山を立て直した中興祖である。
大正14~昭和2年の防災事業・昭和9年から始まった国家直営昭和大修理(昭和30年まで)を推進、我が国初の鉄筋造り寺院収蔵展示施設「大宝蔵殿」建設、援助会二十二日会・聖徳太子奉賛会、勧学院運営・同窓会、戦時の大疎開と供出、壁画焼失事件対応等も定胤時代に〝吉田覺胤〟(執事長・年譜不詳)・〝川西學猷〟(法起寺住職兼務・明治34~昭和27年)・〝二見眞定〟(吉田寺住職兼務・年譜不詳)らの弟子達が奔走した。幼少より苦学力行して妻帯しなかった僧侶である。
明治13年奈良教師教校5年間研修、17年より7年間泉涌寺に俱舎・唯識・因明の幽旨伝授。26年興福寺にての法相宗学頭を経て法相宗勧学院院長。30年法隆寺副住職、探題・僧正に補せられる。32年法相宗管長事務取扱・大僧正。36年法隆寺住職兼管主。41年から薬師寺住職を兼務し、大正3~6・昭和7~10・16~19年法相宗管長の職にあり、興福寺より勧学院を移して法隆寺法相宗勧学院(佛教専門学校)を設け、宗派を超えて多くの僧侶に慕われ学び舎となった。自身、東京帝國大學にて毎週唯識の講義に赴いた。
最大の檀越は、〝5代武田長兵衛〟(本名重太郎・武田薬品中興祖)が、鉄筋建の閲覧室付書庫「鵤文庫」を建設寄贈するのも信仰と定胤との交友によった(東大寺図書館と違って非公開)。
番頭弟子は薬師寺近代の祖〝橋本凝胤〟(明治30~昭和53年、昭和18年から地蔵院主、薬師寺管長)である。以後薬師寺(法相宗大本山)では、「胤」号が受け継がれている。
戦後、法隆寺勧学院(昭和19年戦時休校)は再興されなかったが昭和25年法隆寺住職法相宗管長となるも、法相宗を離れ「聖徳宗」を創設、住職・管主を法隆寺村西里生まれの〝佐伯良兼〟(明治13~昭和38年・昭和7年興福寺より入寺)副住職に譲る。昭和27年遷化、極楽寺墓地に葬られる。文献:大井清一「法隆寺防水道に就て」ほか『鵤故郷』23推古文化号・『故郷』22記念号1928、太田信隆『まほろばの僧-法隆寺・佐伯定胤-』1976(『新法隆寺物語』1983集英社文庫所収)
【freelance鵤書林223 いっこうG3記】
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