聖徳太子の隠れ聖蹟といかるがの里G-1

法隆寺が顕彰した人物―

ウォーナー塔と平子鐸嶺塔

 峯薬師坊の東門と里道を挟んで、両塔は西方院山に人知れず建つ。向かって右の鐸嶺供養塔は、法隆寺をこよなく愛した平子鐸嶺(ひらこたくれい・本名「尚」ひさし・明治10年三重県安濃郡津生まれ)は、佛教史・日本美術史に専念した明治の美術史家(『佛教芸術の研究』)。法隆寺非再建論者の先鋒を務めた事でも知られる。東京美術学校日本画西洋画両科卒業後、帝室博物館・内務省嘱託。明治43年には内務省社寺保存委員になったが、明治44年5月1日、34歳で昇天した。同年に佐伯定胤管長・友人達により西円堂下に五輪塔形の記念塔として建てられたもの(墓碑は津市本町・浄安寺境内にあり)。昭和33年のウォーナー塔建設時に現在地に移転。

 左にあるウォーナー供養塔は、先の大戦において「米軍が京都や奈良への爆撃を控えたのは、日本の文化財を空爆の対象から外す様ランドン(ラングドン)・ウォーナー(米国美術史家)がルーズベルト大統領に進言(空爆すべきでは無い地名リスト提出)し、ほとんどの主要都市が激しい爆撃で焼き払われたが、奈良と京都の古都だけは米軍の空襲から守られたという伝説」があり、京都奈良の文化財を守ったと云う美談話を祈念して佐伯良謙管長により建立された。

 こうした物語は、戦後の日教組教育のお陰で日本人の常識として定着している(昭和30年政府は勲二等瑞寶章を授与し、京都市は感状を贈っている)。今日では進駐軍のGHQ民間情報教育局の情報工作施策の一貫で、〝昭和20年〝朝日新聞〟の文化財を救ったという談話から始まり〟、矢代幸雄(美術評論家)・柳宗悦(民芸家)・志賀直哉(小説家)などが広めた事が明かになっている

 LangdonWamerは、明治14年マサチューセッツ州生まれ。ボストン美術館で岡倉天心の助手を務め、ハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長、戦後GHQ美術管理顧問として来日。昭和30年6月9日逝去。享年74歳

 昭和33年6月に建立された「ウォーナー博士供養塔(Warner Monument)」だが、法隆寺塔を含め全国6箇所(県内では安倍文殊院)に記念塔・顕彰碑あり、現在も法要を行っているらしい。それもまた戦後の平和教育と寺院が結び付いた歴史の一コマである。文献:吉田守男『日本の古都はなぜ空襲を免れたのか』朝日文庫2002 (初版は『京都に原爆を投下せよ』角川書店1995・論文は省略)

【freelance鵤書林221 いっこうG1記】

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