聖徳太子の隠れ聖蹟といかるがの里F-3

五百井伊弉冊命社本殿―

国指定重要文化財と福安寺址

 〝白山大権現社〟と称した伊弉冊命社(いざなみのみことしゃ)本殿は法隆寺の陰にかくれているが昭和29年9月国重要文化財指定物件で、向拝を持つ〝一間社春日造柿葺建造物〟である。

 斗共*・木鼻・暮*股・縣魚・千木・破風も美しく室町期の風格を備える。軒廻りは一軒繁棰で身舎0.788m・梁間0.969m・軒高3.400m。箱棟天板に天正8(1580)年上棟の墨書が天保10(1839)年屋根修理に際して発見され、断片の復元を伝える春日下賜社殿

 今も境内は厚さ1mの築地に囲まれ神宮寺であった〝福安寺址〟の面影を留める。社は、境内地の東南隅にあり、寛保2(1742)年に現在位置に移築したことが判明している。消え去る日も近いが西隣の民家葛本邸の母屋は寺の遺構で阿弥陀堂の残存寺院建築である。

 「五百井村方絵図(福安寺古圖・江戸初)」によると、寺は釈尊院と称し法相宗に属し聖徳太子開基とするが由緒は詳らかで無い南大門・北門を開き、釈迦如来を本尊とする本堂の釈迦堂、東に方丈・西面に十羅刹堂・東南隅に白山権現宮の本殿と拝殿、西と北に東之坊・北之坊・西之坊の坊舎があり、南方に観音堂・湯屋が描かれている。釈迦堂は宝永4(1707)年の再建であったが、大正年間に現地を離れ移建されてしまった。

 現拝殿には幕末~明治期にかけての大絵馬群を見る事が出来るし、寺に関係した墓石集積は寺院の中世墓標群で六字名号碑も貴重な遺構である。

 五百井村の創業明治33年の錦(ニシキ)醤油(株・商標オオニシキ・モミジニシキ)大方氏は筒井勢の土豪であったが帰農した代官家で、一町環濠屋敷居館を構えている北西角の持仏堂寺院「蓮乗院」を有する。地侍〝大方左衛門尉〟は、順慶期の被官として活躍し、嶋左近清興と共に家老〝大方助次郎忠秀〟が名を残している。

 「大方家文書」の調査は近年始まり、成果か待たれる。文献:奈良県教育委員会『重要文化財伊弉冊命神社本殿修理工事報告書』1971

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