いかるがの里テッチャンと隠れ佛・隠れ旧蹟9

神岳神社(かごおかじんじゃ)と神南寺址

―重要文化財神像系地蔵菩薩・聖観音貞観の遺佛

 神南寺上ノ堂(三室堂:能因法師(俗名橘永愷・中古三十六歌仙の一人)が住まいしたと言う伝承:永承4(1049)年内裏歌合で詠んだ歌によって移植)境内地に鎮座するのが神南の鎮守神岳神社。斑鳩では数少ない延喜式内社(式内社とは、『延喜式』「神名帳」に日本全国六十余州の神社名記載がある大明神:神社)小社であるが、沿革は不詳である。

 本殿前の元禄13(1700)年銘のあるお間形石燈籠に〝牛頭天王〟と記す様に近世は牛頭天王社である。現在の祀神は須佐之男命(大巳貴命とも賀夜奈流美命とも)。本殿は南向き桁行3.5尺・梁行4尺の一間社流造り檜皮葺きの近世初期と推定される。今は龍田大社所轄社である(春日社とする文献もあり)。

 地元では聖徳太子の〝鬼門除けの神さま〟と言われた。現在「神岳」は故事を無視(知らない)する人によって「かみおか」と改変されているのは悲しい。基は、神奈備(神佐備)の轉訛と考えられ、特定の固有名詞では無い。〝神並・神南〟と言う字を当てるのが全国的に見ても常である。今三室山と称する山(標高82m)は〝神奈備邑の岳〟と言う事になる。

 堂宇は存在しないが〝神南備寺〟こと「神南寺」は、字下の堂の現「融念寺(融通念仏宗・本尊阿弥陀如来立像)」の前身寺院である。聖徳太子が三輪明神に願をかけて、巽向きに真三間四方の堂宇を建立したと伝承されている。

 その神南寺の佛であった〝つまからげ地蔵〟と呼ぶ貞観期の「重要文化財地蔵菩薩立像」(右手で衣の端を摘まむ神像系の佛)と「重要文化財聖観音立像」の隠れ佛(すでに明治39年に旧国宝指定・海外出張多数で我が国を代表する佛)は、長らく奈良国立博物館へお出ましておられたが、平成5年に完成した融念寺恵寶殿と称する宝形造収蔵庫にお帰りされている(拝観には要予約)。両像は、それぞれ元の神南寺上ノ堂(三室堂)・下の堂の本尊と云う。

 また、三室山山頂に昭和45年頃(『町史』32年)に引き上げられた、昭和捏造伝能因法師〝大型五輪塔〟はここの観音堂傍(幕末までは吉川豊治郎氏と吉中熊之助氏の屋敷境)に存在した中世後期の「大和川供養塔」である。ここは當麻道が塩田川を渡り〝こなめ坂〟(龍田城主の「こなみ」のお姫さんが居た処と云う)を登っての神南と舟戸を結ぶ「舟戸の渡し」場地点となる。この地点の大和川を〝神奈備川〟とも別称している。神奈備川と龍田ノ川の合流点に〝ゴロスケ〟という岩礁があり、淵になっていた。ゴロスケには〝太子の馬の足型〟があったのだと云う。

 大字「神南(じんなん)」は珍しく、近世を通じて大字惣持寺・椿井と共に「楽人領」でもあった。また、7軒の瓦屋(瓦工)があって、神南山周辺の大阪層群の粘土で〝達磨窯〟にて瓦生産が行われていた大字である(聖徳太子が瓦工を連れて来られ製法を伝えたと伝承。近代には3軒となり、現在1軒瓦を扱う会社はその名残)。

 また俗謡に「神南小在所に過ぎたるものござる 寺の松の木か樫(吉川家)の木の蔵か、まだしも八右衛門さん(紀家)の色つばき」とあり、紀氏屋敷椿の木のある「椿井戸」は大層有名であった様だ。南の魚国氏門前に弘法大師が水の不自由を助ける為に掘った「お大師井戸(弘法井戸)」と言う古井戸もある。

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