いかるがの里テッチャンと隠れ佛・隠れ旧蹟7

唯一残った沈下橋―

古の大和川の橋

 潜水橋と異名で呼ぶ人がいるが、この種の橋は、〝沈下橋と言うのである。まだ、四国あたりの河川でも多く残る。

 大和川では、この昭和27年施工12連RC床版橋の全長67m〝大城橋〟のみ(全幅2.6m・有効幅員2.0m)。橋名は大字大輪田と大字城内の共同橋なので〝大〟と〝城〟の一字を取って呼ばれている。かつては棒杭を打ち込み0.5m程の板をワイヤで繋いだ簡易橋であった。三郷坂根・下之庄と王寺久度・追分を結ぶ毘沙門橋・神前橋も昭和40年代末まで沈下橋であった。もう少しあったのかも知れない。

 年間10回以上水没するが、今となっては希少な橋梁形式(流れによる抵抗を軽減し流木の集積防止に高欄は無いRC橋は、耐久低コストで戦後から昭和30年代に普及したらしい)。富本憲吉の常用模様「大和川急雨」モチーフにも使用されている。

 近代河川大改修(昭和8・9年、30年代)が進むまで、「大和川七瀬」と言われる様に七つの難所の〝瀬〟があったと記録される。即ち、〝亀ノ瀬・磐瀬・紅葉瀬・久度瀬・車瀬・御幸ケ瀬・板ケ屋瀬である

 また『嘉元記』によると、中世前期大和川には、二つの橋しかなかった。寺が管理した、惣持寺前の「久度瀬橋」額安寺前の「板ケ屋瀬橋」である。寺から出向く橋供養の記事も多く見つけることが出来る。

 板ケ屋瀬橋は今も大和中央道の現地で額田部と吐田を繋ぐ橋として名が使用されている。久度瀬橋の位置は『新版王寺町史』の記す久度神社地点では有りえない。

 尚、この地点から仰ぐ矢田丘陵・生駒山地を背景にした、いかるがの里風景は素晴らしい。田園風景の中鉄橋を渡る上り下りのJR大和路の電車も眼中に飛び込んでくる。文献:奈良県教育委員会『奈良県の近代化遺産-奈良県近代化遺産総合調査報告書-』2014

【freelance鵤書林206 いっこうD7記】

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