幻の斑鳩「興留藩」―
松平信通一万石とその陣屋址
大字興留(おきどめ)は、東西に発達した歴史を秘めた垣内である。「東垣内」には氏神があり、古い垣内で「西垣内」に広がりを見せた事がわかる。その間を繋ぐのが「市場垣内」である。
伝承では天智帝の頃字王宮・字大殿に住まいした天淳中原興間人王子の興を貰って奥富が興富になり、草書で富と留の字体が似ているので富が留になったと云う。敷地内の神を移したのが氏神であり、敷地続に正隆寺と云う寺があって、小塚に八王子さんを祀ってある(野神)。県道西側にも長福寺と云う古寺もあり、その境外に仕置場もあったと伝承が残る。
中世には「奥富(おきとみ)」と称し、『慶長郷帳』には「置留村」とある。斑鳩周辺村々の多くと同じように片桐且元龍田藩領の後、明暦1(1655)年廃藩で幕府領になるが、延宝7(1679)年松平信之郡山藩(大和添上・平群・式下・廣瀬・葛下・十市6郡、河内讃良郡8萬石)に編入されている。
貞享2(1687)年信之は〝老中に抜擢〟され、1萬石加増になって下総国古河移封、しかし翌年逝去。遺領9萬石の内長子忠之8萬石継承。ここで貞享3(1688)年信之の遺封1萬石分を分与(32箇村領有)〝次男斎宮松平信通(まつだいらのぶみち)〟が譜代極小藩の「興留藩」を創設し、〝元禄2(1689)年に陣屋を西垣内に完成〟させた。その址は現在も環濠を有する川合康博邸一町屋敷として残る(遺構は明らかで無いのでは無い)。しかし、元禄6年に備中国庭瀬(現岡山市)に所替えで〝7年余〟にて廃藩し、全国一短命藩となる(理由は元禄6年兄の古河藩主忠之発狂で、除封されるに及んで、藤井松平家の家柄をもって1萬石の加増のうえ本家名を継いだ事による。さらに藤井松平家は、元禄10年に出羽国上山へ転封し明治維新を迎える)。
興留は再び幕府領になっている。悲劇は奥富村枝郷、興留藩領飛び地「白石畑」が現代まで残された形となった事であろう。
【freelance鵤書林204 いっこうD5記】
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