天下七本槍〝片桐東市正且元〟居城と古の龍田7


清水山吉田寺―

ぽっくり往生で名を馳せた寺

   當麻道の龍田郵便局からJA龍田前の坂を「見光坂(けんこうざか)」と呼ぶ。吉田寺(きちでんじ)の前身寺院「顕光寺」に由来する。現清水山吉田寺は浄土宗寺院で、本尊は〝大和のおお佛〟と異名をとる丈六(佛の基本大量:立像にして一丈六尺・坐像にして八尺)の国指定〝重要文化財阿弥陀如来座像〟。近世後期以降浄土宗で用いられる木魚読経と御朱印帳作り体験で売り出し中である(異端とされた念佛中の木魚使用は、伏見法傳寺の不退圓説上人(正徳4~寶暦9年)が始めたとされる)。

   昭和34年農業井戸から摂氏19度の食塩泉の鉱水が湧き出た。先代山中長悦住職の発案で、霊泉として温泉サービス浴場を造り、本尊に肌着祈祷し下半身の病や世話にならず無病息災・天寿真当新たかな霊験と一世を風靡した(『太陽』№45 1967)。

   開基〝恵心僧都(源信)〟の母親もぽっくり往生したことから「ぽっくり往生のお寺・しみずさん・腰巻のお寺」として腰巻祈祷寺として名を馳せ、誕生地の〝五位堂・阿日寺〟と共に本家争いを展開した事でも話題を呼んだ(最近は〝PPK:ピンピンコロリ〟を発信)。

   寺伝では、吉田村(小吉田村)鎮守である清水八幡宮旧蹟に接して『延喜式』「諸陵寮」に見る龍田清水墓(間人親王墓[天智帝妹])の存在から天智帝勅願による陵寺とし、叡山修行の「恵心僧都」来遊して永延2(988)年再興したとする。「八幡宮之旧跡地、偶得栗樹、大数十囲、(略)刻弥陀丈六尊像、建堂塔安之、云々」は、現本尊の壮麗な重文木造阿弥陀如来坐像(藤原・坐高約2.5m)の事と思われる。これらは、清水垣内西「字見光寺」に位置した「紫雲山顕光寺・坊舎六坊」の事と考えられ、顕光寺は筒井・古市・鷹山氏らと共に興福寺衆徒である〝龍田殿(氏)〟の居城「龍田城館」に隣接した菩提寺的性格をおびた寺院とも考えられ、芯柱に「寛正4(1463)年6月13日別當立野信賀大勧進衆」云々銘〝重要文化財多宝塔〟(当初の姿を留めた県下では数少ない多宝塔として昭和36年4月指定。方三間本瓦葺き・高さ40尺・12m、均整が素晴らしいとされる)も現存する

   その後、平群郡坂門郷の吉田村の地名が寺名となったと推測出来る(同郡平群郷の吉田村と区別する為に慶長以後小吉田村改名・平群郷吉田村は明治10年新家村と合併「吉新」となる)。山中眞悦住職・浩悦副住職の代に至り「清水山顕光院吉田寺」を名乗られ、本尊収蔵施設「奉安殿」が増設・庫裏が新しくなり境内地は入山料が必要になっている。

   八月の朔日に行われる「鳩にがしの放生会」の起源や斑鳩の地名・葬儀の鳩にがし・斑鳩農家の鳩蔵鳩飼育風俗を考える上にも寺の縁起は大変興味深いが、地元でも謂れに基づいた習慣も今は遠昔の事である。

【freelance鵤書林182 いっこうB7記】

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