片桐東市正且元と龍田城総構え―
龍田藩片桐城
大和龍田に陣屋を天下分目〝関ケ原の戦の翌年〟、慶長6(1601)年に構えたのは、羽柴秀吉(太閤豊臣秀吉)が柴田勝家と天正11(1583)年に戦った天下の〝賤ケ岳の戦七本槍〟の一、〝片桐東市正且元(かたぎりひがしいちのかみかつもと・弘治2(1556)~元和1(1615)年)〟である。
播磨・伊勢所領替え上1.8萬石加増の〝2.4萬石余(24,407石)・平群郡内55箇村拝領〟したのに「龍田藩」が始まる。陣屋は中世龍田氏居城とは別に平群川(龍田ノ川)と大和川を望む堂山の地に天守こそ無いが二重濠を備えた総構えの城(龍田城或は片桐城と呼ばれる所以)として、死後3年を経た〝2代城主孝利〟の代、元和4(1618)年完成したらしい『片中漫録』。元和1年に起こった豊臣氏滅亡の戦「大坂夏の陣」に親子・弟小泉片桐家共参戦で、大和・山城・河内・和泉国内領加増で都合4萬石の大名になっており、〝龍田は四萬石の城と城下〟が造営された訳である。豊臣氏の滅亡を見届ける様に、徳川家康同様同じ年の〝5月28日額安寺で療養の後京三條衣棚の屋敷で逝去〟した(辞世の句〝桐一葉落ちて天下の秋を知る〟享年60歳・正に豊臣政権と歩んだ人生であり、命運を背負った武将であった)。
片桐家の出自は、四代前の為頼の信濃国伊那郡片桐村とされ、且元は近江国浅井郡須賀谷村(現長浜市須賀谷町)の浅井長政重臣片桐孫右衛門直貞家に生まれ、秀吉に近江衆として仕えた。賤ケ岳で3千石・文禄4(1595)年朝鮮渡海後追賞1萬石で諸侯に列す。秀吉亡き後秀頼・淀殿の老臣として重要な位置にあり、家康の信任も厚く龍田建藩時には、〝摂河泉国奉行〟の地位にある。奉行として弟片桐主膳正貞隆(1萬石余「大和小泉藩」祖・明治4年まで12代続く。将軍家茶道指南役の石見守「石州」〝貞昌〟は2代目)と共に多くの池溝改修・寺社復興・大修理の大役を次々と熟した大立者であり、卓越した才能を開花させた(この時の作事奉行且元の〝慶長5~11年秀吉供養秀頼寄進法隆寺大修理〟において大工棟梁中井正清始め大工・左官・黒鍬者集団との関りが、後の家康政権と正清の活躍に大きな縁を与えたのは想像に難くない)。豊臣家存続の為に尽力した有能な事務官僚武将であったが、方広寺大佛殿再建奉行の慶長19(1614)年7月家康との「鐘銘事件」の取りなしに失敗し、淀殿から行動疑念をかけられ、一族は10月大坂を退去茨木城に入る。〝大坂の役〟を経て家康政権に実績が認められたのであった。
奈良街道龍田の新町町場中央部より南進するのが追手門・道のあった「字追手」(近世城郭は〝大手〟と記さずあくまで〝追手〟:徳川大坂城しかり)・「字広間」は陣屋建物のあった処。「字花畑」は庭園・「字堂山」は櫓のあった処、「字白山北堤」は土塁が巡った址である。字花畑には「クツナ井戸」と云う古井戸があったらしい。「字清左衛門屋敷・太郎右衛門屋敷・次郎右衛門屋敷」は城内に家老屋敷が追手路に沿ってあったことを伺わせる。
南は「平太池(ひょうたんいけ)」を設けて濠とし、「長池・鎌池」は陣屋の内堀の址で濠溝横断区画である。総構えの外堀は、東は谷部の「東町池(どんど池)」と北を画する「現25号線両法面の猫坂前までの空濠」、平群川を西は峨瀬から西に蛇行し、岩瀬の杜(御祓川)から東流していた塩田川部分を現在の様に丘陵に沿った「崖下に改修」し、車瀬の集落を移転、御幣岩より真っ直ぐ南流させ、舟戸より「舟入」させる大工事を行ったと思われる。當麻道に沿った「字東町・下町」の東・南は中下級武士の屋敷群が造営され、武家屋敷地が城中を取り囲んでいる(「元禄9年龍田村古圖」喜多宏家旧蔵斑鳩町所有が唯一の絵図)。バイパスの事前調査でも埋甕・石組み井戸・石列・溝が整然と並んで検出されている。
白山神社横手への抜け道は今も「馬場道」と呼ばれており、川畔が馬場であろう。「新町」の町場は、左右奥行15間で「町割り」、「寺院割り」をしている。北を矢田丘陵南端の通称立田山を背にした南斜面に築かれ、眼下には馬見丘陵の南端まで視界が開け大和川を望む。奈良街道を城下に取り込み西から東へと貫かせている。東は、龍田社門前から街道に取り次いで當麻道が南下し陣屋惣構えに沿う形に南に迂回する。西は龍田ノ川を台地の縁辺に沿わせ水濠として勢野丘陵と分断区画させ、椎坂から下ってきた奈良街道・南進の清滝街道の正面に「龍田大橋」があり城下への入り口になっている。この縄張り範囲を〝龍田城惣構え〟と考えられる。街道も河川もこの造営にあたって付け替えや改変が加えられた事は容易に想像されるのであり、復元される範囲は、500m四方の二五万㎡に及ぶと思われる。
一昨年(平成27年)且元・家康没後400年・大坂の陣終結400年であったが、行政・斑鳩町住人は、〝龍田藩〟おろか且元親子の城下は全く記憶の範疇になかったのは悲しい限りであたった(ちなみに日本人の記憶から忘れさられた「賤ケ岳七本槍」は、目覚ましい働きのあった秀吉直属小姓組七人の福島市松(正則)・加藤虎之助(清正)・加藤孫六郎(嘉明)・脇坂甚内(安治)・糟屋助右衛門尉(武則)・平野権平(長泰)・片桐助作(且元)のことである。蛇足乍ら本来は櫻井佐吉・石河濱助を加えた九人であったといい、この二人は戦死・負傷病没し後世七人が伝えられたらしい)。文献:曽根勇二『片桐且元』吉川弘文館人物叢書 2001、長浜市長浜城歴史博物館編『片桐且元-豊臣家の命運を背負った武将-』2015
【freelance鵤書林181 いっこうB6記】
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