龍(竜)田神社と別当寺の伝燈寺址
神社の創建は、社伝や『聖徳太子伝暦』に由れば太子が、宮寺造営の地を探している時に西ノ山「椎坂(しいさか)」において白髪翁(龍田明神)が現れ、斑鳩佛法興隆寺地をお告げになり、その伽藍の三宝擁護鎮守として三郷町の龍田大社を勧請したとなっている。祀神は、東殿に天御柱命(あめのみはしらのみこと)・國御柱命大神(くにのみはしらのみこと)の龍田風神、西殿に龍田比古・比売大神の地主神(陰陽の皇神)を祀る。創建に関して古代に遡る確たる史・資料は全く見いだせない。
当初立田山鎮座とか御廟山に鎮座したとか、太子一族の陵鎮守だとか想定している者がいるが、歴史学の法則を無視逸脱する夢物語と言わなければならない。いずれにしても、聖徳太子信仰の高揚と共に勧請されたと考えられる。社は、〝本宮〟の官幣大社に対して摂社の〝新宮〟としての位置づけであったが、大正11年11月独立し県社に昇格している。
境内の大蘇鉄の木は、昭和32年6月県指定天然記念物(東西2株の植栽木で根本周囲5.7m。蘇鉄は元々熱帯~亜熱帯の雌雄異株の裸子植物で暖地でなければ花を付け無いが、此の木は茎頂に雄花を付ける希少種)。
神笠木がのる神明鳥居の馬場前は会社の物陰乍ら高燈籠が聳えるように、近世の龍田宿場町(龍田市場・且元城下旧町と中世龍田氏以来の町場)の奈良街道と當麻道の衢(ちまた)にあたる。中世には法隆寺より別当坊三十口を給い、平群郡48郷の産土神神宮として「龍田三十講」(龍田会)が催され、祭礼には法隆寺衆僧30人が奉仕に来たと記録に残る『法隆寺寺要日記』。
永正4(1507)年絵図には、鳥居後方に楼門があり、東方に東之坊など坊屋敷7坊と鐘楼・観音堂などが描かれている。明治期まで社務所の東隣(たった保育園敷地)が伝燈寺という「別當寺」が存在した(別當寺とは別當寺院のことで神宮寺の一種。平安期以来、神佛混淆の日本において特に別當のいる寺を別當寺と呼んだ。宮寺・神護寺なども同意である。中世以来、神社境内に建ち別當(当)が止住し、神前読経・神社祭祀・加持祈祷を佛式で行うと共に神社経営管理の寺院である。別當とは元々は官職名の事。ちなみに中世以後国司興福寺の末寺になった法隆寺の政務は、興福寺院家が別当を務め法隆寺管主僧は小別当と呼ばれている)。龍田社本殿東には、〝三重塔〟も描写され、灌頂堂であった本堂(本尊大日如来で大日堂とも・康正2(1456)年紀年銘)は明治37年五百円で売却、京都日野・法界寺(日野氏氏寺・親鸞誕生地)の〝重要文化財薬師堂(桁行五間・梁行四間)〟となっている。
国宝絵画の傑作、化粧観音と異名を持つ〝絹本著色十一面観世音菩薩像(藤原、井上薫旧蔵・奈良国立博物館蔵)〟も明治期までここに伝えられたもの。
寛元1(1242)年には、西宮夷神を勧請し「龍田市」が繁栄した。境内西の末社「白龍・弁財天、祇園・粟島・廣田」の右端に「恵比寿社」が人知れず佇む。
社を拠点に活躍した坂戸座猿楽(丹後・五百井・服部村の三里奉仕)が大和四座の一つ金剛流の源流ともなった。三里の祭礼として「龍田八講」、「雨悦猿楽」・「雨悦相撲」などの行事も記録されている。
整理公開されていないが「龍田御宮知家文書」は当社の社家に伝わった文書。神社の神紋・龍田町章は、萬葉期以来龍田紅葉の表象「八葉の楓」である。
【freelance鵤書林183 いっこうB8記】
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