天下七本槍〝片桐東市正且元〟居城と古の龍田3

岩(磐)瀬の杜と塩田の森址―

『枕草子』天下の杜と梨畑

 「磐瀬の杜」は、『萬葉集』巻8に鏡王女「神奈備の伊波瀬の杜の呼子鳥いたくな鳴きそわが恋まさる」の歌枕。それを受けて清少納言が『枕草子』193段森の項に天下の杜は、〝浮田たもの杜・うへ木の杜・岩瀬の杜・たちぎの杜・岩田の杜・木枯の杜・大荒木の杜・たれその杜・くるべきの杜〟と見え、『源氏物語』にも登場している。龍田では「磐」では無く「岩」の字を当てているのが滑稽だ。その場所は、三室山の北裾を「岩清水」と言い龍田ノ川に落ちている場所に森があり「岩瀬の杜」と称した(『大和志』・『竜田考』の異説では「塩田の森」に求めている)。松の木が生えた森で明治期まで祓戸社(白山神社合祀)があったという。三郷龍田大社所管磐瀬の杜では、〝魚簗祭〟(放生会)が今も行われている。

 この場所の龍田ノ川は、古写真を見ると上流の峨瀬同様〝岩瀬(がんせ)でその中に「御幣岩」と呼ばれたひときわ大きな岩があり、この地点を俗称として「御祓川」と呼んでいたのである。〝御幣岩場〟が、長谷川党などの大和国祭春日若宮おん祭り奉仕水垢離の禊場であったのであり、そうした事から大和祭礼頭役の「龍田垢離場」と呼ばれた神聖な重要場所だった。男子13歳大峯山上参拝の人々も、まず岩瀬の杜祓戸社に参拝して奇岩・御幣岩の上で身を清めたものだと云う(役行者が元山上より川に沿って下り、御幣岩で身を清め神南備寺の観音に詣でて大峯山上に上ったと伝承し、役行者を祀っていた。偶然今(2018)年、川西町結崎の糸井神社座衆神事の当屋さん・役員一行が御幣岩へ祭礼を前に参拝されていたのに出くわしたのには驚いた)。

〝塩田〟は現在、塩田橋が唯一の名を留めるが、字塩田(シオダ)の「塩田の森」と呼ばれた森もあって(昭和63年頃まで・雑草繁る公園の場所)栴檀の一本木も健在だった(稲葉車瀬の一本木の森)。白山社に合祀された塩田社(住吉社)が明治期まで祀られていた。御幣岩から東流したかつての川を「塩田川」と称したようだ。何故〝塩〟なのかは、吉田寺の項でも記したが地下水の食塩泉鉱水が川べりや井戸に染み出していたのだろうと考えられる(神南にも字塩田という処あり)。ここに温泉を掘削すれば成功することを付け加えておこう。

 塩田川流路址の砂地土壌が春先白花香る〝斑鳩風景〟の一つ梨園の梨栽培である。栽培面積は六町歩にも満たないが、明治末から大正期に盛んになった。虚子の『斑鳩物語』の中で〝菜の花の海に浮かぶ島の様に、棚作りの梨の白い花が遠く線路の彼方まで点々と続いている〟と印象的に描いている。品種は〝長十郎〟から平成に入り〝幸水・豊水〟で市場に出さず、直売と通信販売である。

【freelance鵤書林178 いっこうB3記】

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