聖徳太子の聖蹟といかるがの里風景11

松の馬場―

法隆寺には三処の松の馬場がある

 馬場とは門前の車(馬)の集まる処を指す。道の両側に松の木が植林された参道でもある。〝法隆寺の馬場〟は、弘長1(1261)年後嵯峨上皇帝行啓の折り、住民協力して整備された由緒正しきもの。奈良街道に面して高燈籠が建つ処が正面で、道標隣接の並松会所の位置は中世以来変わりない(並木中程に「並松長二百十間幅六間」の石柱あり)。有名な筒井順慶勢四千騎と松永久秀勢七千騎が戦った永禄12(1569)年〝並松戦場(いくさば)〟は此処が舞台。この時も奇跡的に法隆寺の建物は焼失する事無く無事であったのだ。

 二つ目は、松尾寺へ向かう〝天満松の馬場〟。法隆寺の築地が途切れる辺りから天満池までの松並木で法隆寺村郷社天満宮一の鳥居も写り込んだ松並木の入江泰吉写真は懐かしい。鳥居は昭和47年神社階段下へ移転された。

 三つ目は、神屋(上宮)から岡本へ通じる130m続いた〝神屋松の馬場〟である。太子が上宮から岡本宮へ学問に馬で通った道と言う。昭和50年前半頃まで松があった様だ(馬場に建っていた「延享二乙丑年十二月 日成福寺比丘快雄建立 従是南幅四間四尺長二十八間余 従是北幅二間五尺長四十四間余 従是東西幅四間長十四間四尺」の〝松の馬場石標〟が成福寺の中に取り込まれている)。松は目安の字ミノシバと言う処が松の名所であったと言い、松の馬場の松もここから移植したのだと伝える。それは、明治12・3年の大和川大洪水で沢山の松が流された後、昭和8・9年の護岸大工事で、春日社境内の松も見る影も無くなったと言う。

【freelance鵤書林169 いっこうC11記】

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