聖徳太子の聖蹟といかるがの里風景10

中宮寺宮墓地と樋崎古墳群―

宮内庁管理比丘尼達の墓所

 宮内庁管理下陵墓の中宮寺墓地は、中宮寺歴代門跡比丘尼達の墓所である。整備された寺地に近世変形卵塔・宝篋印塔・卵塔・五輪塔がずらりと並ぶ。かつての〝優雅な斑鳩御所〟の一端を味わうことが出来る地である。

 尚、墓石紀念銘は右より

1. 慶長7 中興一世高祐大姉〔舟形五輪塔・「慈覺院宮高祐尊智大姉」享年不明〕 

2. 貞享2 後西院尊儀〔五輪塔〕

3. 元禄7 中興二世慈照院高秀尊覺大姉〔五輪塔・式部卿邦彦親王子高秀尊覺女王:慈照院宮〕

4. 享保7 中興三世慈雲院尊秀高栄長老大姉〔卵塔(無縫塔むほうとう)・後西院帝子尊秀高栄女王、享年62〕

5. 安永5 中興四世慈眼院尊珍栄恕大芯芻尼〔卵塔・有栖川中務卿織仁親王子尊珍栄恕女王、享年28〕

6. 弘化2 中興五世慈心院尊照栄暉大芯芻尼〔卵塔・有栖川中務卿織仁親王子尊照栄暉女王、享年54〕

7. 元治2 中興六世慈明院宮尊澄成淳大芯尼王〔慶応元年卵塔・孝明帝養子尊澄成淳女王〕

8. 寛政6 常楽光院無尊映親王〔寶篋印塔・身石が丸〕

9. 燈籠左未読 廣荘厳院二品尊覺親王〔寶篋印塔・身石が丸〕

10. 未読  平等心院無品尊誠親王〔寶篋印塔・身石が丸〕

11. 未読  成智心院無品尊常親王〔寶篋印塔・身石が丸〕

12. 元禄15 當山葦二世菩提心院大勧大師〔寶篋印塔・身石通常〕

13. 未読  勧喜心院〔寶篋印塔・刻印無し〕

14. 明治38 開山深恕海院〔寶篋印塔・身石が丸〕

15. 宝暦4 清浄心院〔寶篋印塔・身石通常〕

16. 天和3 寶地光院〔寶塔〕

17. 不詳 心水軒谷口鄭團先生墓〔亀台座位牌形・孝子谷口寿団建爲〕となる。

「安永5年有栖川宮栄恕女王〝中宮寺日記〟写」・本多圓造「中宮寺宮墓取調書類」明治43年3月、「大正13年3月22日宮内大臣宛願出写」中宮寺住職近藤尊覺・信徒総代北畠治房今村勤三辰巳楢太郎書き写し文書に寄れば、「開祖穴穂部間人皇后(欽明帝第三皇女・用明帝皇后)・信如大比丘尼(弘安年間住職履歴墓地不詳、興福寺学僧璋円娘・叡尊最初の律宗比丘尼・文永10〔1273〕年釈迦念仏営)、慈覺院高祐尊智女王(中務卿貞敦親王)天文年中入寺以来明治44年迄309年とある。令和2年迄では417年になろうか。

 また、この尾根筋樋ノ崎は、小規模な円墳で構成される後期群集墳が見られ「樋崎古墳群」と呼ばれている。石材が見いだせない事から主体部は木棺直葬かと推定される。

 斑鳩の地は藤ノ木古墳のインパクトが大きく、古墳文化は豊と勘違いされる場合が多い。確かに蘇我系墳墓と太子一族上宮王家の6世紀末から7世紀の古墳が目立つ。盟主墳は5世紀の小規模な前方後円墳駒塚斑鳩大塚を契機とする初期群集墳のまとまりがある程度である。

 蘇我氏系の下部を構成した人々の墳墓である6世紀の後期群集墳に至っては、横穴式石室墳の神南古墳群10基程度(消滅)、字塚原の三井古墳群10~20m未満の木棺直葬・石室の円墳7基程度(ゴルフ場の景色として残存)とここ樋崎古墳群は、近代に作成された「中宮寺宮墓及周囲境界略図」で10基が確認でき、10mの円墳が3単位群程度のまとまりである。特異なものとして、寺山に4基の盛土墳と5基程度の横穴墓(隼人系氏族墓)が共存している。文献:久野邦雄・関川尚功「斑鳩町三井の古墳群について」『青陵』31 1976、関川尚功「斑鳩町神南古墳群」『青陵』64 1987、佛教大学考古学研究会・小野久隆「奈良・斑鳩町龍田寺山横穴について」『陵』3・4合併号1977・河村萬里・豊島直博ほか「奈良県斑鳩町寺山古墳群測量調査報告」『文化財学報』32 奈良大学

【freelance鵤書林168 いっこうC10記】

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