法起寺と聖天信仰―
最古三重塔
〝ほうきじ〟と呼ぶ「法起寺」は、地元では今も〝ほっきじ〟である。聖徳太子が、推古帝14(606)年法華経を講じ、創建した七大寺随一の一つとするが、〝岡本宮〟を山背大兄王(?~皇極帝2(643)年)によって寺に改めたと言うのが通説。古代には「池後寺・岡本寺」と呼ばれていたようだ。
天武帝14(685)年、恵施僧正が発願の三重塔(景雲3(706)年落慶)が現存し、法隆寺塔の初・三・五重と同平面を持つ高さ24mの最古塔、法隆寺と共に〝世界遺産〟。伽藍は法隆寺と金堂と塔の配置は左右逆であること、伽藍は85×80m四方のほぼ一町を示す。また方位を異にする北偏20度の下層遺構が境内防災・県道バイパス調査で確認されている。尚、高浜虚子の描く『斑鳩物語』に登場する塔はこの塔がモデル。
永禄年間(1558~1570)の戦乱に塔を残して灰塵に期したという。現在は西の勝手口門からの入山であるが、閉鎖中の南門・本堂他聖天堂は近世真政圓忍律師発願の〝現世利益大聖歓喜天信仰〟による復興建物である(生駒宝山寺聖天宮より古く祀られた本家だとも云う。元来の開帳は4月29日)。
塔露盤銘をめぐって復元研究を行ったのは會津八一であり、最初に訪ねた頃は廃寺の様に荒れ果てていたらしい。昭和になりまほろばの僧佐伯定胤愛弟子川西學猷(かわにしがくゆう・明治34~昭和27年・雅号は「無相」:鵤舎)が法隆寺僧と兼務し住職(檀家13・信徒150人・庫裏昭和18年完成)を務め復興に取り組んだ。學猷は無相の名で、東大寺龍松院寧楽會刊の佛教美術雑誌『寧楽』同人に名を連ね、什物売却によらない方策としていち早く法隆寺宝物の絵葉書・影印書籍の販売を念頭に自ら写真撮影・紙焼し、昭和3~5年にかけて法隆寺史料複製第1冊『金堂日記』影印本、法起寺鵤舎叢書6巻7冊を刊行するなど佛教史學者として才覚をも発揮した。また、昭和4~14年〝鵤故郷舎〟(佐伯啓造:西里から昭和2年~18年にかけて斑鳩で歴史と美術を出版発信する。門前での店経営は昭和28年頃まで)刊の美術と信仰雑誌『夢殿』19巻21冊・考古と美術雑誌『以可留我』1巻6冊のキーパーソン・監修者でもあるのが確認されるが、国立国会図書館はじめ我が国では混同・認知されておらないのは悲しい。
寺は、律口龍教師の後〝無住寺〟で、現在は法隆寺が管理する。法起寺土蔵から法隆寺宛て會津八一墨蹟などが高田良信師により発見され、八一と法隆寺(定胤師)との関係を書き残している(墨蹟などは學猷に託していたものの、寺側には受け入れられていない様だ)。文献:高田良信「法隆寺学入門(五十二)」『聖徳』219 2014
【freelance鵤書林163 いっこうC5記】
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