国史跡中宮寺址公園-
秋桜の花が乱れ咲く風景
長らく塔・金堂基壇の高まりが水田中に竹藪としてさらけ出していた寺院址痕跡を昭和38年の調査以来、都合14次にわたる県・町が断続的に発掘調査を行い、この度国庫補助を得て買い上げ・整備史跡公園化された。
その寺院は「中宮寺」或は「斑鳩尼寺」と称し、聖徳太子が生母穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)の為に建立したと伝える。単弁忍冬文の装飾六弁蓮華文軒丸瓦を葺いて7世紀前半には創建され、後半には寺域が整備された事が調査で明かになっている。大形花崗岩の地下式の心礎を備えた三重塔と金堂・講堂?(明確に講堂址と思われる基壇痕跡は確認されなかった)が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置で、史跡公園として2018年オープンした(平成3年5月史跡、13年8月追加指定)。寺域は北門・南門を開いて築地で囲まれた東西126m・南北東辺190m・西辺220mが確認され、『聖徳太子絵傳』に描く伽藍圖でも廻廊は無い。
寺は、鎌倉期の文永(1264~75)年間に〝興福寺信如尼〟が西大寺叡尊上人らの行動に心を打たれ再興に尽力したものの、14世紀初に度々火災に見舞われ以後は衰退の一途をたどったという。16世紀半ばにこの場所を離れ、西500m程の法隆寺東院に隣接する現在地に移った。周囲から掘建柱建物の柱穴が確認されており、「中宮」の遺構を含んだ建物が想定される。文献:『史跡中宮寺跡発掘調査報告書』斑鳩町文化財調査報告第11集 2013
【freelance鵤書林161 いっこうC3記】
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