聖徳太子の聖蹟といかるがの里風景1

いかるがの里の飛鳥期宮址群

   飛鳥期に斑鳩に存在した宮は、『日本書紀』などによると「斑鳩宮(いかるがのみや)」・「中宮(なかみや)」・「岡本宮(おかもとのみや)」・「飽波葦垣宮(あくなみあしがきのみや)」である。寺院の解体修理・防災、バイパス道路などの発掘調査で、ほぼ所在と痕跡が確認されている。それらの方位は現在の8世紀に施行されたと思われる南北方位の〝条里型地割〟では無く建物等の方位は西偏20度振った斜行〝斑鳩方位〟であり、斑鳩地域の特殊土地方位として議論になる処である。法隆寺に先行して、四天王寺式伽藍配置をとる「斑鳩寺(若草伽藍)」主軸が西偏18度であり、東院の地下遺構の斑鳩宮もその軸線で建設されている事が知られている。痕跡として西院東門の北側土塀・西院の南側土塀もこの方位を取る。太子が推古9(601)年に建設を開始し、推古13(605)年に居住したとする「斑鳩宮」は、夢殿北側一帯(高麗尺600×600尺・300尺(105.9m)二単位の212m四方)が想定されている。礎板を持つ大型掘建柱建物が新旧二時期あり、聖徳太子宮殿と山背大兄王宮殿と言う見解もある。

 「岡本宮」は、法起寺の下層に西偏20度前後の掘建柱建物・井戸が発掘され、文献通り読んで岡本宮址と推定され、妃の一人〝刀自古郎女(とじこのいらつめ・馬子娘)〟の宮殿と考えられている。600×600尺(212m四方)の範囲が想定され、南方から取りつく幅10m程の道路遺構も発見されている。

 「中宮」は、旧中宮寺址遺跡公園の下層に太子の母(〝穴穂部間人皇女・あなほべのはしひとのひめみこ〟)・妃(〝兎道貝蛸皇女・うじのかいだこのひめみこ〟〝位奈部橘王・いなべのたちばなのみこ〟)の宮殿が600×600尺(212m四方)が想定されている。中宮の〝中〟とは、位置的に中間という意味もある様だ。幸前の中世に遡る斜行水路が痕跡を留め、『日本霊異記』に登場する「聖徳王宮前道路」が注目される。

 「飽波葦垣宮」は、上宮遺跡公園から成福寺址にかけての地点で、妃の一人〝膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)〟が居住した600×600尺(212m四方)の宮殿が想定されている。「飛鳥Ⅰ期」の多くの土器類が出土している。

【freelance鵤書林159  いっこうC1記】

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