いかるが文化圏の食文化3 ケンズイ(間食)

 C.ケンズイ(間食・間水):この言葉自身もう死語に近いが、大和一円では間食のことをケンズイと呼び、今日で言う「茶しょか(茶しばこ)」が間水であったのだ。

 トッキョリのおかしん(菓子)として、桃の節句お雛さんには寒に搗いた「かき餅とキリコ(雛あられ)」、春は「よごみ餡つけ餅」があった。よごみとは蓬の事であるが、春の香の葉を摘んで餅を搗き、小豆を湯でた粒餡に絡めたあんころ餅。農休みの春ごと・レンド(会式)に作られた。

 彼岸には「彼岸団子」・「ぼたもち」を作った。端午の節句には、嫁の里からの鯉のぼりと共に持参の柏餅(米粉団子)があった。粽は池淵の葦の葉で包むが、柏の葉は新芽が出るまで葉を落とさないから家の継承を願ったものである。夏至から数えて11日目の半夏生に作られた「はげっしょ餅」があった。裏作の小麦・大麦収穫と田植え仕舞いに作られる黄粉小麦餅である。秋の祭礼時には「くるみ餅」があった。新米を搗いて収穫に感謝する餅と言える。青大豆や白大豆を餡にして白餅にくる(包)むからそう呼ばれる。月見は白玉団子を作ってお供えした。寒さ暑さも彼岸まで、秋の彼岸にはあんころの「おはぎ」も作った。農作業の終わった旧暦十月の亥日(亥の子)に食す、いのこ餅の「いもぼた」があった。貴重な餅米を使わずドロ芋を利用し、ぼた餅に似せた餅である。青大豆で餡くるみの処もあったようだ。冬は正月の餅の準備に「かき餅」と「きりこ」を合わせ作る。寒に搗くので黴が生えないとされ、青海苔(青)・干しエビ(赤)・砂糖(白)・胡麻(黒)・うこん(黄)を混ぜて搗き、ねこ(伸し)餅にして、生渇きに鉋で薄く削って吊るして保存おやつを作った。色は五行思想に適うものである。

 「アモ」(餅)は、食すと新しい生命や力がつくとさる東アジア的食文化で、日本人は季節の節目・目出度いハレ時には、飾り・味わってきた最大のスローフードである。唐招提寺修正会最終日は、今も全国48名物餅を談義する。大和では特に事あるごとに餅を搗いた。正月には年神様を迎える為に鑑を模した餅鏡(鏡餅)を供え、柳の枝に餅花(綿花生産の象徴の作りもの)を飾り、餅の入った雑煮を食し神仏に無病息災を祈願してきた。

 春には自家栽培の、夏は畦菽(あぜまめ、青大豆・ビール菽)を湯がいて食し、西瓜無花果(いちじく、クワ科イチジク属)・まっか(まくわ瓜)などやトマトもあった。春先のお多やん菽の湯がきも美味だった。うすいえんど(誉田碓井(うすい)原産)餡の餡巻き「しきしき」は自家製ホットケーキと言った処だが、地域の駄菓子屋やおまん屋で購入する駄菓子飴・カルメラ焼き一銭洋食焼(お好み焼きの元祖)或は羽二重餅田舎饅頭六方焼甘納豆生姜漬堅焼き(伊賀名物)などもおやつによく食されたものだ。

 秋のかかりから収穫する薩摩芋も、蒸かし芋や竈のおきで作る焼芋もよく食し、芋は芋穴に春まで保存してあった。

 果物では、必ず一本や二本の(梵柿〔早生〕・御所(ごせ)・富有(ふゆう)・次郎・鶴ノ子)が植えられていたし、柘榴(ざくろ)・茱萸(ぐみ)・ゆすらんめ(ゆすら梅)といったものが屋敷にあるのが通例だった。屋敷続きの菜園には、はらんきょ(はたんきょう)・きんぐさとぎ(在来種の砂糖黍)が植わっていた。柿は藁に編んで「吊るし柿」(干柿)が作られた。暮れや正月月のおやつであるが、砂糖が貴重であった頃甘味にも利用されたようだ。渋柿は戦前まで、青柿を粉砕した汁を柿渋として出す家もあった。

 秋から正月には、露天で売りに出る蟹屋のモズク蟹(藻屑蟹)は最高の間水であった。秋の里山も豊だった。柴栗アケビ椎の実銀杏(ぎんなん)・コンメ(なつめ)・ムカゴ(山芋の種)など子供のおやつを提供した。

 最後に消滅した銘柄もあるが、西大和の地酒(日本酒)を記録しておこう(◇は県推奨27品目に含まれていないもの、【酒造元】)。山鶴【中本】・◇生駒宝山・嬉長【上田】・◇往駒・菊司【菊司】・◇神楓・◇龍田川【北口】・◇槌の露【東】・◇初時雨・◇若葉【太田】・◇信貴【谷】・◇月鶴【井上】・歓喜光【澤田】・金鼓【本家大倉】・◇金星【吉崎】・◇梅の宿【梅の宿】・◇透泉【中川】・◇偕老【北川】・景雲長龍【長龍】などがあった。

 また酒で思い出すのが、梅雨明けから夏の山田に生息する赤・青の毒蛇、ハメ(はび・関東言葉のマムシなどとは言わない。上方ではマムシとは塗すに語源がある鰻のことだ)梅・花梨の焼酎酒が家庭で造られ精の付く(強壮剤)飲み物だった。隣接する河内堅下(かたしも)村・駒ヶ谷(こまがたに)村周辺では近代葡萄生産が隆盛、それを受けて河合村穴闇(なぐら)西山周辺(堅下村安堂からの集団移住開墾)や平群村椹原(ふしはら)・富郷村三井(とみざとむらみい)でも栽培が始まり、一升瓶の葡萄酒が普通に流通していた事も昔々のこととなった。

 今日食を巡る風景の変化は、内外からの食材大量流通・洋食の普及一般化や調理器具の変化と進歩と言った説明は容易い事だが、20世紀前半までの我が国の食生活を振り返る事で21世紀の食の可能性が見え隠れする様に思う。調理の主役は、おかちゃん(主婦)・女子衆(おなごし)の智恵であった点を強調しておきたいし、食の文化遺産を守り伝えるには、さらなる地域学の構築とヘリテージセンター的価値の集約所も必要となろう。

初出典:田中一廣2015/3/14『奈良大和の食文化を考える』抜粋

【freelance鵤書林105 いっこう記】

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