生駒山寶山寺奥の院参道地蔵坂道の地蔵2020.08.10 15:03―大和の現世利益・昭和平成令和の佛教民俗の好例 生駒聖天で有名な寶山寺の遥拝所から奥の院へと続く石畳参道の〝地蔵坂道〟には多くの地蔵を中心とする供養石造物が林立し、崇敬信者・結社により建立されている。日々蝋燭・線香・賽銭を持ったお詣りも絶えない。 その中で名物となった〝重軽地蔵尊...
8/23・24日仏教的お盆の行事〝地蔵盆〟2020.08.10 14:55―孟蘭盆回向 上方では、関東の新暦(明治4年改め太陽暦)では無く日本の本来の季節で、八月は盆月に当たる。旧暦(太陽太陰暦)に合わせた地蔵盆(孟蘭盆回向)が広く行われている(大和地域でも七月の月日を取って新暦で受け入れている処、旧暦に当てはめた日をとって八月に行われる二種あるが、古...
奈良公園の鹿(しか) 名所旧蹟12018.03.06 04:56 現在の指定された奈良公園内の鹿(種:「日本鹿」)は雄200・雌800・小鹿200の約1,200頭が生息している(年間140頭前後交通事故)。国指定の天然記念物(「奈良のシカ」生息地保存・1957/9/18)である。 「一般財団法人奈良の鹿愛護会」によって保護活動が実施され、世代...
10/中旬 松山町(まっちやまち)華小路ダリア花じゅうたん 福島正則弟高晴と史跡宇陀松山城址・支配と城下2018.03.03 13:24 宇陀松山町(現宇陀市大宇陀区松山・伝統的町並み保存地区)は、戦国期は宇陀三將の「秋山氏」が統治した城下から始まった(榛原地域は澤城の澤氏・菟田野地域は芳野城芳野氏)。“秋山右近直国”が去った後、古城山の地の宇陀松山城は豊臣政権のもとで、大坂の前衛城郭を兼...
10/第二日曜 吉野小川村の小川祭(おがわさい)と日本最後の狼(おおかみ)2018.03.03 13:00 小川祭:吉野郡旧小川村(現東吉野村の一部)の小川祭は御社形太鼓台祭・喧嘩祭りの異名を取ったとして人知れず有名である。何故〝都市型祭礼〟の山車が吉野の奥にあるのかと当初は疑問であったが、丹生川上神社再興(森口奈良吉の丹生川上社探索研究)と無関係でないことが分かり判然とした。すでに...
1/7は七草粥(ななくさがゆ)2018.03.03 12:56 “ななえ七草、七日のおみそ、七草いりまへんか”戦前街中へ5・6日の初仕事として半商農家の降り売りの声があった。上方では正月の“ごっと”から胃休めに七草入りの塩味の白おかい(粥)を食す正月の習慣である。災難を避け長寿富貴を得ると言うすでに廃れた習慣だったが、近年春七草をパック詰め...
1/1御神火・大和国一之宮は三輪明神2018.03.03 12:46 “三輪明神(みわみょうじん)”と呼ばれた大神神社(おおみわじんじゃ)は大和盆地の南東、秀麗な姿の神奈備である三輪山をご神体とする神社。古来より本殿は無く拝殿の奥、神明鳥居を連ねた三ツ鳥居を通して御山を拝する我が国最古の社である。三ツ鳥居から奥は禁足地であ...
8/15なら・「大文字送り火」とは:2018.03.03 12:21 毎年8/15に高円山で行う点火行事で、奈良大文字保存会と(公財)奈良市観光協会主催の催し。昭和35年に観光行事創生として「京都・五山の送り火」の伝統儀式を真似て始まった。盆行事の大文字焼きは、全国の小京都と称する都市で催される処も見受けられる。「戦争で亡くなった人々の魂を慰める...
5/18・19なら・「薪御能」とは:2018.03.03 12:14 毎年5/18・5/19(2017年は19・20日)に春日大社・興福寺南大門「般若の芝」で行う古式に復した、奈良薪能保存会主催の催し。元は南都興福寺の伝統儀式と御能。奈良市指定文化財。全国で催される薪能の始まりとされる。現在、18日は春日大社舞殿で「咒師走の儀」・19日は若宮社で...
2/初午と稲荷ずし・かのえさるの日と庚申…2018.03.03 11:49 初午(はつうま)とは:二月初めての午の日を初午と言い稲荷社大祭である。イナリは、イネ・ナリの意味であり農業の神として全国に勧請(かんじょう)され、信仰が広がっている。総本山と言うべきものは伏見の稲荷大社で、商売繁盛・招福・厄除け・子授けなどオールマイティ...
2/3節分と豆撒き・追儺、巻きずし丸かじり…2018.03.03 09:09 節分(せつぶん)とは:季節の分かれ目のこと。二十四節気の立春(りっしゅん)・立夏(りつか)・立秋(りっしゅう)・立冬(りっとう)の前日。太陽太陰暦(旧暦:和暦)の正月に近い立春の前日が最も重要とされる。その為に正月や小正月と同じような年頭行事を行う。現在...
1・2/土・日曜 「水木十五堂賞」東京帝國大學黒板勝美博士“大和の水木か水木の大和か”2018.02.24 02:16 生駒郡郡山町豆腐町に住まいした、水木要太郎(みずきようたろう1865~1938)が大和の歴史や文化に関する博識から「大和の水木か、水木の大和か」と呼ばれたと引用されるが、誰が何のために揶揄したかは伝えず独り歩きした感がある。これを言ったのは東京帝國大學国...