生駒郡郡山町豆腐町に住まいした、水木要太郎(みずきようたろう1865~1938)が大和の歴史や文化に関する博識から「大和の水木か、水木の大和か」と呼ばれたと引用されるが、誰が何のために揶揄したかは伝えず独り歩きした感がある。これを言ったのは東京帝國大學国史編纂所の重鎮で、政治的にも大きな力があった黒板勝美(雅号虚心1874~1946)である。当時は『国史大系・群書類聚・続群書類聚・続々群書類聚・奈良遺文・平安遺文・鎌倉遺文』等々(国史集成活字冊子本の編纂)事業が大きく進められて行く時期であったのだ。奈良大和の史料蒐集家・王寺村久度の保井芳太郎(1881~1945)コレクションや吉野龍門村阪本猷(1891~1942)の龍門文庫の調査にも東京帝大から訪ねている事からも水木の博識は役立ったのだろう。
水木は、雅号を「十五堂・淮南(豆腐のこと)」とし、元治2(1865)年1月15日伊予国南伊予村(現愛媛県伊予市)の生まれ、松山中学校(子規の一級上)・東京高等師範学校で学んだ。明治23年3月奈良県尋常師範学校教員心得をかわきりに奈良県尋常中学校(後郡山中学校・現郡山高等学校)教諭・奈良県高等師範学校(現国立奈良女子大学)教授の職(昭和2年退職)にあった。奈良帝室博物館学芸委員・奈良県郡誌編纂委員(生駒郡・添上郡担当-未刊)なども歴任。昭和13年6月1日逝去。享年74歳・墓地は西ノ京三松禅寺。大和郡山市は顕彰する「水木十五堂賞」を平成24年より設けた。毎年12月に資料収集などで社会に貢献し功績があった方が、選考委員会の選考を経て決定される。
水木の何が知らしめたかと言うと残した7,000点余の『水木コレクション』が近年国に寄贈され、千葉の国立歴史民俗博物館にて整理公開された事による。中近世の古文書・近世の刊本・近世近代の絵地図・文化人の書状など多岐にわたる膨大な資料群で、学術的に貴重な資料も多く含まれている。中でも異彩を放つのが『水木の大福帳』と呼ばれる半紙四分の一大の帳面で319冊にのぼる横帳には、多くの学者や文化人・芸術家などあらゆる階層の人達が署名やコメント、似顔絵などを残しており、時代の息吹を直接伝える資料となっている。こうした資料からも奈良大和の歴史や地誌の研究を進める一方、漢詩・和歌・俳句・書画・狂歌から茶道・演劇等を通じ、多くの文人や芸術家と交流し、幅広い分野であらゆる蒐集を行った事が見て取れる。(『収集家100年の軌跡-水木コレクションのすべて』国立歴史民俗博物館展示図録)
【freelance鵤書林9 いっこう記】
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