聖徳太子の聖蹟といかるがの里風景散策

400字ミニ解説

駒塚・調子丸墳:元来「駒塚」は全長60m程度の古墳時代中期前半(4世紀後半)の二段築成小型前方後円墳地域の小首長墳墓である(町史跡)。東水田中に存在する「調子丸墳」は、現存径約14m・高さ約2.5mの円墳。普通円筒・器財埴輪を伴う5世紀の中期古墳である。駒塚は『和州旧蹟幽考』(延宝9・1681年)などに見え、太子の神秘の愛馬「黒駒」を葬ったとする。黒駒は推古6(598)年4月〝甲斐国から献上〟され、太子と共に諸国を周り、富士山にも飛んで行ったと云う。調子丸墳は、太子に従った「調子麿(麻呂)」を葬った墓と伝承する。従丁の舎人調子麿(丸)は太子13歳の時、〝百済国から来た国聖明の弟〟で日夜奉仕して84歳で亡くなったのだと記録されている。この両塚の間にあった寺院が『大和名所圖會』(寛政3(1791)年)にも描かれている「東福寺」で、〝陵寺〟とする。


史跡中宮寺跡:昭和38年の調査以来、都合14次にわたる県・町が断続的に発掘調査を行い、平成3年5月史跡・13年8月追加指定を受け国庫補助を得て買い上げ整備、平成30年に半世紀を経て史跡公園化がなった。その寺院は「鵤尼寺」或は「斑鳩尼寺」と称し、太子の〝生母穴穂部間人皇后〟の為に建立したと伝える。〝中宮(なかみや)〟があった事から「中宮寺とも呼ばれたと云う。単弁忍冬文の装飾六弁蓮華文軒丸瓦を葺いて7世紀前半には創建され、後半には寺域が整備された事が調査で明かになった。〝扁平な大形石英閃緑岩の地下式の心礎〟を備えた三重塔と金堂・講堂?が南北に並ぶ〝四天王寺式伽藍配置〟で、寺域は北門・南門を開いて築地で囲まれた東西126m・南北東辺190m・西辺220mが確認され、『聖徳太子絵傳』(嘉元3(1305)年)に描く伽藍図でも廻廊は無い。中世には火災に見舞われ荒廃著しく、16世紀半ばの天文年中(1532-55)に慈覺院高祐尊智女王(中務卿貞敦親王)入寺して夢殿東隣に移り〝門跡寺院〟となる。元々国宝天寿国曼荼羅繍帳・国宝弥勒半跏思惟像(如意輪観音半跏像・亜細亜のビーナス)はここにあったもの。


秋葉神社と幸前神社・狛犬:大字〝幸前(こうぜん)〟には、「幸前神社」と「秋葉神社」の二つの社がある。秋葉社は室町期まで存在した旧斑鳩尼寺東北にあった鎮守社の遺構。春日造一間社の宮は、無格社で〝火産霊尊〟を祀るが沿革は不詳。幸前社は路を隔てて鎮座し、旧村社で素戔嗚命を祀る〝牛頭天王社〟である。春日造一間社檜皮葺き朱塗で、左方に大神宮社・春日社の銅板葺き摂社がある。〝弘化4年銘狛犬〟・寶永4年・享保4年銘燈籠が確認される。割拝殿は瓦葺きで「奉納日清戦争大絵馬」を見る事が出来、太子の大変革を支え主導した秦河勝一族の〝秦幸隆〟が創建したとする幸隆寺」という神宮寺(幸隆寺前の村:幸前)がここにあった。〝狛犬〟は今どこの神社でも参拝者を迎えてくれる鬣を持ったライオンに似た対の守護獣(狛:高麗:異国)。幕末期までのものをよく見るとユニコーンの様に一方の頭に角が有り狛犬と呼ぶ。戌は口を閉じる〝吽〟で、口を開くのが〝阿〟の獅子、阿吽一対となっている(我が国にはユーラシア大陸を東漸して各地の習俗を採り入れながら、平安前期の9世紀に形が結実したと考えられ、最古の石製狛犬は鎌倉再建時に宋石大工伊行末作の東大寺南大門裏の阿吽石像)。江戸期に入り大和農村の経済力を背景に石造製が盛んに奉納される。鎮座の場所は、社殿から拝殿へ拝殿から拝殿の外へ境内へとさらに近年は境外と変化し、今は中共国生産品が大半だが上方の場合、多くは和泉砂岩製・花崗閃緑岩製〝大坂型狛犬〟で〝立売堀石工(石大工)産〟が流布している。


山背大兄王と富郷陵墓参考地:〝山背大兄王〟は蘇我馬子娘刀自古郎女〟と太子との長男。皇極2(643)年入鹿が王を攻め王一族の人々と斑鳩寺で自害した。これによって〝上宮王家〟は滅びた。岡の原山頂には、総務省宮内庁が管理する山背大兄王富郷陵墓参考地」がある。〝参考地〟とは、「陵(天皇皇后)・墓(皇子以下その他の皇族)」に特定されない参考とする陵墓の事。『延喜式』「諸陵寮」の〝北岡墓〟をこれに充てようとするものである。独立墳的な30m程の円墳と考えられ、Ⅳ期(5世紀後半)の埴輪の出土を伝え〝岡原古墳〟と文部科学省文化庁傘下の文化財側が認識している。真の王墓について研究者達は、龍田西ノ山周辺や〝平群西宮古墳〟を考える。


史跡三井:太子が斑鳩に居を移した際、〝東井・前栽井・赤染井〟の三つの井戸を掘ったと云う。元法輪寺境内地にあたる井戸は「赤染井」(御井みい)と呼ばれ、昭和7年掘削調査されて覆屋と井戸枠を組んで再生、国史跡に指定。石囲み井筒の径1.1mの上は0.8mの野面積みとし、上部3.0mの井側は厚さ7.6・幅25.8×22.7㎝の台形の〟を約700枚使用して40段ほど小口積みに重ね、径1.45mの中膨らみの円弧を成して円筒状に仕上げ、深さ4.4mを測る〝創建時の井戸〟である。


郷社斑鳩神社天慶年間(938-47)年菅原道真苗栄とする法隆寺別当堪照(たんしょう)〟によって天神を勧請(本殿・第一殿)して〝法隆寺天満宮創建(東西51間・南北35間1,785坪)。明治2年8月寺を離れ斑鳩天満宮になり、神仏分離で山内から社三殿が移される(〝法隆寺では神佛分離令で佛では無く神が分離移動したのだ〟)。一番右方が西院にあった〝惣社〟(神明神社・天照大神・第二殿)、右方は東院南西の〝五所社〟(春日四神と住吉明神・第三殿)、左方は西円堂薬師坊の〝白山権現社〟(白山神・厳島社・大将軍社・第四殿)で法隆寺村の〝郷社〟となり現代に至る。秋の祭礼には法隆寺山内(西院聖霊殿東接)に行啓する祭礼形式をとるのはその為である。その際大字法隆寺の垣内5町(三町さんまち・五丁ごちょう・東里ひがっさと・西里にっさと・並松なんまつ)が「布団太鼓台」とススキ提灯を山車に仕立てた「ダイガク」を出して随行する。


国宝法隆寺東大門:〝切妻造・本瓦葺〟の〝三面一戸の八脚門〟で法隆寺中ノ門とも云う。八脚門とは、梁行の中心柱の前後に四本づつ八本の控え柱を持つ門で一番挌式が高いが、この門は桁行三間なので中央一間が戸口となり、颯爽とした姿の軽快な門。奈良前期(8世紀)の〝三棟造〟で優美な最古門として国宝指定。昭和9年の解体修理によって材木の番付風化から創建当初は南面した南大門と併行して段上の地点に建立を見た様で、築地が南方に移った時に現在地に移築したらしい。天平19(747)年の『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』の「僧門三口」の一つと考えられ、当初の姿に復元された。ここに立てば、東院の四脚門である西門へと続く石畳み参道の主軸が振れている事に気づくであろうその振れこそ前身寺院〝斑鳩寺の軸〟であり、太子が造営した〝斑鳩宮の軸〟なのである

(奈良斑鳩ツーリズムwaikaru依頼原稿2020/6/1から)

【freelance鵤書林245 いっこう記C19】

 日本人の心の故郷 聖徳太子といかるがの里を〝観る 学ぶ 食べる 癒される〟ほんまもんガイド!

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