聖徳太子の隠れ聖蹟といかるがの里I-3

 並松の歌聖家藤門周斎と吉田奈良丸公徳碑―

天下の『広辞苑』斑鳩五哲

 藤門周斎(ふじのとしゅうさい・本名元弘(本弘)・元禄5(1692)~安永5(1776)年)は、並松に生まれた歌人・書家であった。雅号を「藤門斎・柳下居士」とも称した。父は藤門政春、大網公人主(おおあみのきみひとぬし・平城帝の侍臣で和歌をよくし、『萬葉集』巻3に収録)の子孫といい、代々大和国大網の里(田原本町)に住していた。屋敷門に藤棚(花)があった呼称から氏にしたと言う。父の代に居を斑鳩に移し、和歌を大木の〝森本宗範〟に学び、後京の〝烏丸光栄〟に師事し大いにその賞讃を受け子弟をも指導し、『芳野紀行』を残している。書も一時盛名を博した。

 中宮寺の宮と謀り龍田の川岸に往古からの法隆寺による地名移植を受けて楓樹を植え名所の再生を図った人物である。その活動は寛延年間(1748~51)に始まり幕末近代の有栖川宮・龍田保勝會へと受け継がれて行くのである。山内の宗源寺内に顕彰碑がある。『雲根志』に周斎の話が出ている。安永5年2月27日85歳で逝去。

 初代吉田奈良丸(本名竹谷奈良吉・嘉永4年3月廣瀬郡百済村の煙草問屋「竹庄」の四男として生まれる・引退後は竹廼家養徳斎を名乗り門生の養成と台本改作に努める)は明治の名浪曲家明治30年秋から20年間並松で住まいしたと云う(初め龍田・田中音一郎「綿音」家婿養子になるが、チョンガレが嵩じて離縁されたと伝える)。

 煙草問屋を大阪に持つようになり千日前にチョンガレを聞き、浪曲を吉田音丸に学び、勤勉刻苦してその奥妙を極めた。

 著作のほとんどは忠臣孝子の伝記物であるが、大阪をはじめ各地を巡業し、遠近に聞こえ好評を博した。斑鳩に60人もの弟子がいたらしい。大正4年1月65歳で逝去。法名「釋良誓」、極楽寺墓地に眠る。

 昭和3年知己門弟によって松の馬場参道右手、並松会所北に接して立派な公徳碑「初代奈良丸之碑 正二位勲三等子爵清原朝臣宣足書」が建てられている(二代目奈良丸は下市町生まれの廣橋廣吉〝吉田小奈良〟こと「吉田大和之丞」)。

 因みに天下の『岩波広辞苑』に載る斑鳩町縁の人物は、〝聖徳太子伴林光平佐伯定胤・西岡常一この〝吉田奈良丸〟である。

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