法隆寺松の馬場と
業平道―斑鳩の業平伝説
馬場とは門前の車(馬)の集まる処を指す。道の両側に松の木が植林された参道でもある。〝法隆寺の馬場〟は、弘長1(1261)年後嵯峨上皇帝行啓の折り、住民協力して整備された由緒正しきもの。奈良街道に面して高燈籠が建つ処が正面で、道標隣接の並松会所の位置は中世以来変わりない(並木中程に「並松長二百十間幅六間」の石柱あり)。有名な筒井順慶勢四千騎と松永久秀勢七千騎が戦った永禄12(1569)年〝並松戦場(いくさば)〟は此処が舞台。この時も奇跡的に法隆寺の建物は焼失する事無く無事であったのだ。
法隆寺馬場を斜めに横切る道は在原業平ゆかりの〝業平道〟である。業平こと在原業平朝臣は実在の人物(天長2(825)~元慶4(880)年)で、日本人なら誰でも知っていた〝歌の名手・日本一の貴公子・美男子(⇔美女小野小町)〟である。
天理櫟本(在原寺・神社:謡曲「井筒」)より西行、斑鳩を通過して十三峠を越えて河内高安の里へ至る道を、『伊勢物語』(125物語と209首和歌)23段「筒井筒」記事の「業平河内(高安)通い」道:〝業平道〟と呼称し、富雄川に架かる橋を〝業平橋〟(平成9年車通行の〝新業平橋〟施工)と称する。
『伊勢物語』には「風吹けば沖つしらなみ龍田山 夜はにや君がひとり越ゆらん」が掲げられている。また沿道には、〝業平姿見の井戸〟と云うものも各所にある(広峰社井戸・五百井井戸など。地元俗謡に「ここは並松業平さまか 姿井戸とはこのことか」と言われたことも遠い昔となった。文化財活用センター前に案内看板あり)。斑鳩大字高安を大和の人々は〝高安の里〟と称し、その昔(正暦(990~95年)の頃)業平を忘れない様に村名を「富ノ小川村」から「高安村」に変えたのだと云う。
斑鳩を通過する道は、〝高安から法隆寺の寺前を通って西里の南側に出て龍田町の北側(龍田閑道)を通って戒下(かいげ)に出て平群川の板橋(業平橋:念仏橋)を渡って清滝道を行くとも、法隆寺並松を通って龍田町に出る路を言い、戒下を通って平群川に出る。大橋の北から西南へ下がって三室山の下を通って大和川北岸に通ずる道〟も業平道と言っていた。
【freelance鵤書林198 いっこうA8記】
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