龍田町場―
龍田城総構えの市場町から奈良街道宿場町へ発展と衰退
『歴史的町並み報告書』を作成しながら、「斑鳩町歴史的風致維持向上計画」にも策定されず日に日に建物が解体され、僅かに残る重層な近世旧商家の面影を残すのが「龍田町場」。龍田の地は、小泉を経て郡山・奈良に通じ、亀ノ瀬越え・十三峠越え・信貴越えで最短で大坂・堺と結ぶ。筋違道・當麻道で大和国中・吉野へと至る要害の地である。大和川水運の中継地でもあったのだ。その町場の成り立ちは天下の賤ケ岳七本槍の一人・豊臣秀頼政権老臣で国奉行であった片桐且元(四萬石)が造営した龍田城総構えの市場町である西の龍田新町。町場は〝街(都市)〟であり、町会に分割され町毎に各宗寺院が計画的に配された構えを取るのも特徴の一つだ。龍田町場には、現在も浄慶寺・東光寺・六斎寺・西光寺・霊雲寺・妙延寺がある。具体的には元和1(1615)年の且元の死後、片桐龍田藩四萬石の遺領は2代目城主嫡子〝出雲守孝利〟が継ぎ龍田城下発展に力を注いだ。元和4年に街道に沿った長さ178間・左右裏行15間を町として公認、〝町下年貢免除〟し町の育成を図り中世の古町市場町に城下町的色彩を加えた。そうした町割りを残したまま、片桐家廃藩後も〝奈良街道宿場町・法隆寺門前街〟として維持された。
2代孝利は、寛永10(1633)年高野山造営奉行をも務めたが、同15年38歳の若さで遁世した。子無く断家の処、弟〝為元〟の世継許されて免れるが、除封で一萬石に減領、3代為元も承応3(1654)年5月44歳で死去。4代跡目を長子〝為次〟が継ぐが、明暦1(1655)年11月15歳で早世し、3年〝無嗣除封廃藩〟となり56年の短運命を辿った(幕府は且元旧功を惜しみ、為次弟〝且照〟を3千石寄合旗本に取り立てたが、これまた実子無く小泉藩貞昌孫〝貞就(さだなり)が養子入りし跡を継ぐが、元禄7(1694)年2月17歳で昇天し、小泉藩とは対照的に本家・片桐且元家はここに絶えた)。
現在唯一文政12(1829)年瓦銘を持つ本瓦葺き太田酒造㈱(明治3年創業・太田一郎邸)主屋・茶室ほかが登録有形文化財の指定を受けている。主屋は桁行8間・梁行6間・身舎梁間5間半と長い。間取りは右勝手である。
寛政12(1800)年の記録では、日用生活品・食料品の屋号のある商家が121軒(借家14軒(文化3年・24軒)酒屋3軒)が連なっていたとされ、伊勢参宮・法隆寺・當麻寺詣で客の旅籠「角屋・さる(猿)屋・松屋」には多くの女中がいて、〝龍田宮前、はかいでもきれいな宿の女がすそではく〟とう俗謡が伝わる。宮前馬場には駒が繋がれていたと云い、明治期にも人力車百台の待機場だったらしい。
町の一番から六番町の成り立ちは明治初期の大区小区制の名ごりであり、町は明治の〝御一新〟にあたり佛式葬儀を神式(神葬祭)移行・各大字神宮寺や龍田社の佛教建造物排除・売却と時代に流されて行く従順な龍田住人の純朴心変化は、町並みを異質に激変させる姿を見るのは今に始まった事ではない様だ。
郡山に次いでで明治24年の「近代町行制」下でも役場・登記所・警察署・郵便局・電話局・銀行・各種学校が集中し、書店・食料品等々の店舗・銭湯(紅葉湯)・醫院が存在したが、仏壇店・医院などの一部を除いて、21世紀に入り、すでに町(街)としての機能が失われた。
〝地域の生き証人であり、野ざらし芸術〟である石造物について、過去には行政に要望書をも提出したが、本質を見失った街(町)の誇り喪失は、龍田衢の「泉州堺神南辺大道心建立 天保十五申辰年」道標や町入口大橋東詰「江戸新吉原尾太施主 文政二巳卯年 信貴山毘沙門天道」巨大道標の撤去、幕末の松尾道道標が折れたまま何年も放置されている事などにも表れている。
【freelance鵤書林186 いっこうB11記】
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