龍田市と常楽寺市址―
大和で一番由緒正しき市
神社前の文化8辛未(1811)年9月銘高燈籠の建つ空間は〝龍田の衢(ちまた)〟で、當麻道の起点。ここを〝龍田の馬場〟ともいい今でも8.1m以上の広い道幅である。寛元1(1243)年に摂津西宮廣田社の夷(蛭子)神を龍田新宮に勧請し、「龍田市」が始まる。南都興福寺に発生した市に比べても屈指の市であったらしく、夷神を勧請する事で比重を加えた。翌々年の寛元3年には龍田馬場路を造ったと記録されている。
また市の賑わいの中で起こる殺傷事件記事も多く登場する『嘉元記』(法隆寺別當補任寺務次第・嘉元3~貞治3年)。その講元(スポンサー)は、別當寺龍田社であったろう。市は、交易の場所であると共に神聖な場の一種の〝アジール〟であったのだ。白川七百首にも、「知る知らず人は立田の市なれば 誰を誰とも別で頼まむ」と詠まれている。恵比寿社は本社の右手に境内末社として現存し、細々と正月十日に「龍田恵比寿」祭が行われている。
一方「常楽寺市」は『嘉元記』によると、延文4(1359)年現在の法隆寺幼稚園の場所にあった常楽寺(本尊五智如来)境内に、西宮夷社より〝御神体の鑑〟が請来して社殿を造り常楽寺市が始まったと記す。恵比寿社は、三町の本町住人によって祀られてきたが、明治初期に斑鳩観音霊場(毎年大般若修行)の一であった寺は廃寺化し、社は合祀令で郷社斑鳩神社に合祀され境内末社になっている。
南の小路が〝市場小路〟と呼ばれ、西へ延びる路の街が〝魚町〟であるが、今は忘れられ〝うお〟が〝うらまち〟と呼ばれる(魚町の中程の歴史を感じる敷地と堂が「真如庵」の中宮寺末で無住廃寺)。塔頭内寺院(大寺の子院:塔頭の中にありながら宗派の異なる独立した寺院の事・法隆寺では北室院と浄土宗の宗源寺(金光院)があった。明治以後子院の一つになる)の西大寺系律宗の北室院が、社の運営・祭礼費用を出し市の経営(財源確保)に関わっている。尚、常楽寺市は、『安堵町史』の記す安堵常楽寺門前では無い事は明らかである事を指摘しておこう。龍田市は〝3・8日〟、常楽寺市は〝5・10日〟、廣瀬社門前の「廣瀬市」は〝4日〟の市日と記録に残る。
【freelance鵤書林185 いっこうB10記】
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