過ぎし刻黄昏に想う太子の夢探訪解説4

いかるがの里と斑鳩町―

地名の起こり・其の範囲

 町は昭和22年4月1日、3町村合併自治体(誕生73年・南北6.4㎞・東西4.4㎞・11,731世帯・人口28,336人(22年10,870人)、高度経済成長期移住新住民世帯6.5割の町・その孫世代、兵庫県太子町・大阪府太子町などは、太子信仰に基づく命名・法隆寺荘園の地)。「町村制」下明治22~昭和22年まで龍田町(明治24年町制)・法隆寺村・富郷村(富ノ小川の村里)。明治30年「郡再編制」下平群郡と添下郡合併で生駒郡成立(2町17村・大正12年郡制廃止。しかし住所表示・行政機構エリアに生きている現状あり)。龍田町は、旧宿場町と純農村。法隆寺村は、法隆寺門前街村と職人町。富郷村は純農村であった。

 「斑鳩(いかるが)」の名は土地の字(あざ)も含めても存在しないが、往古は「甫鳥(鵤)・伊珂留我(伊加流我・伊加留我・以可留我)」と書かれ、富ノ小川(富雄川・古代の流路は今の岡崎川流路)以西、西大和地域を漠然と〝いかるが〟の郷と呼ばれたようだ。その起こりは、「まだらばと(ハト目ハト科のジュズカケ)」の群が宿っていて空に舞い上がり、佛法興隆の霊地である事を若き太子に教えたと言う。その宿った木は「福居」と云う処の民家内にあったとも、東院あたりの地ともいう(異説ではスズメ目アトリ科のマメマワシを「イカル鵤」と読ましてそれがあたるのだと言う説が近年浮上するが、民俗学的に見ても地域住民と鳩との結びつきや寺社行事の関係を考えた場合歴史的背景を無視する異説には全く説得力は無い)。斑鳩では〝町章〟、各小学校・中学校の〝校章〟も鳩のジュズカケをデザインしている。

 今日的視点の〝斑鳩(いかるが)の里〟と言う表現は戦後の造作で、根拠となる文献は存在しない(旅行ガイドブックの嚆矢『大和名所図会』寛政3(1791)年では、漠然と法隆寺・駒塚を含んで東方面を俯瞰して示している)。

 この地は古代では膳氏の本貫地であり、太子の膳妃4代前の祖にあたる膳臣斑鳩(かしわでのおみいかる)の名が見え、天武13(684)年の八色の姓制で膳氏は「高橋朝臣」を賜っている。

 大寶律令「国郡(評)里(郷)制」大寶1(701)~「市町村制」明治22(1889)年までの1,188年間の斑鳩町は龍田町・法隆寺村域が概ね大和国平群郡〝坂戸郷〟、富郷村域は〝夜摩郷〟に属す。ほぼイツボ川筋が里界。安堵町は明治22年の町村制から続く希少奈良県六町の自治体の一つで、〝飽波郷〟に相当する。

【freelance鵤書林154 いっこうZ4記】

日本人の心の故郷 聖徳太子といかるがの里を

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