緒言
“唐揚げの竜田揚げ”は奈良県生駒郡斑鳩町龍田(たつた、古来地元では「っ」を小さく“たった”と発音)の名が付いている語源・由来について、真意の質問が出ているようなので一文を認めておく事にする。(市販唐揚げの商品名として「竜」の字体が使われている事が多いので、ここでは唐揚げを「竜田揚げ」と書き表す。)
一.“竜田揚げ”とは
『広辞苑6版』(新村出編 (株)岩波書店2008)によると「たつたあげ:揚った色が赤いので紅葉の名所竜田川に因む。魚・肉などを醤油と味醂に漬け片栗粉などをまぶして油で揚げた料理。」と記載がある。
名称の語源は「名所竜田川」で、揚げ物は、鶏肉・魚肉・鯨肉に醤油と味醂で下味をつけ、片栗粉をまぶして菜種油やサラダ油で揚げたものをそう呼ぶらしい。通常の小麦粉の衣(唐揚げ粉も同様)が付いた、唐揚げとは異なる揚げものと言う事ができる。ちなみに、唐揚げの「唐」とは中国の唐(カラ・トウ)と言うのでは無く異国と言う意味であり、唐菓子類の我が国食文化史上は、神饌の餢飳・糫餅と同様、大陸文化との遭遇期に伝えられたと考えられよう。さてその語源と揚げ物の由来とはいかなる結びつき、経緯があるのであろうか。
三.“竜田揚げ”の由来
一説には、龍田の住人がこの唐揚げを最初に考案したとか、旧大日本帝国海軍の軽巡洋艦「龍田」の司厨長が、小麦粉の代わりに片栗粉を使って揚げたので、「龍田揚げ」と名付けたともいうが、いずれにしてもこじ付け話である。前者に関しては、龍田地方では、鶏を飼うが殺して肉は食さないという言い伝え(伝説)がある事が否定材料である。伝説は、「神功皇后三韓征伐の折、暗峠で朝一の鶏声を合図に出発とされたが、鶏は寝坊して鳴くのが遅かったので平群川に棄てられた。下流の龍田大明神がそれを拾って飼われたので、龍田神社のお使いになり、生駒では飼うことも食す事もしてはならぬのに対して、飼うが肉は食さないというのである。(往馬大社では鶏追神事が伝承されているし、龍田神社では30年前の先代まで境内に多くの矮鶏が放し飼いに保護していた。今は手水鉢に銅製鶏が鎮座しているが、それらを知る人も残り僅か。)」そう云う土地柄で鶏肉の竜田揚げは誕生しない。後者は、日露戦役頃の海軍での“おふくろの味肉ジャガ”誕生秘話(海軍舞鶴初代鎮守府長官 東郷平八郎指示の舞鶴発祥地)の焼き直しであろう。
揚げ物に何故「龍(竜)田」の地名が付けられたかは、教養のある方ならすでにお判りになっただろう。“紅葉”(“楓”)とくれば“龍田”(“坤・西”)・“三室山”は古歌に詠れ、詩に賦する歌枕の常識事項なのである。
また、伝承料理研究家を自称する奥村彪生氏やおいしいもの研究所主宰土井善晴氏は、「唐揚げは赤褐色に揚がり、所々に片栗粉の白い部分があることから紅葉の流れる竜田川に見立てた」命名という。果たしてそうであろうか。苦肉の発想に思える✤。
✤土井勝は、雑誌『お料理』(1968年創刊)に「さばの竜田揚げ・鶏手羽先の竜田揚げ」記事在り。1974『土井勝の家庭料理』東京:㈱お料理社所収 で紹介。土井は実子だし、奥村は弟子だが、師の呼称謂れを伝承していない事に疑問も否めないので、命名は料理ライターだった岸朝子の可能性もあるが今となっては藪の中である。
思い返して頂きたい、吾々戦後の学校給食に週に幾度とも無く“鯨の竜田揚げ”が出たことを。単に竜田揚げと言えば鯨肉に決まっていた。しかも、日本の食卓から鯨肉が姿を消した頃から鶏肉や魚肉の竜田揚げが店頭に並ぶようになりだした事を。元々、郷土食や家庭食では無いと考えるのが自然である。奈良大和の郷土料理を扱った本と言える、下記の五冊の本には、竜田揚げを全く採り上げられていないのが何よりの証しだ。
(1)中澤辨治郎編(1942)『郷土食の研究-奈良縣下副食物之部』食糧報告聯盟本部刊、(2)新田美幸・山口ちず代ほか(1992)『聞き書奈良の食事』日本の食生活全集29 348pp 東京:(社)農山村漁村文化協会 (のち『伝承写真館 日本の食文化』8近畿 2006再録)、(3)田中敏子(2001)『大和の味 改訂版』173pp 奈良:(株)奈良新聞社 (初版(1988)『同名』145pp)、(4)富岡典子(2005)『大和の食文化―日本の食のルーツをたずねて―』139pp 奈良:(株)奈良新聞社、(5)特定非営利活動法人奈良の食文化研究会(2007)『出会い大和の味』266pp 奈良:(株)奈良新聞社
“竜田揚げ”は本来鯨肉であって、商業捕鯨の産物であり、鯨肉は牛肉様に薄くカットされ、鶏肉の様にブロックでは無しに平たいものであった。それが、赤褐色の紅葉葉(楓)の様であり、衣とも呼べない薄い皮が纏う処も紅葉の天婦羅そっくりなのである。ちなみに「もみぢの天ぷら」は名勝箕面の瀧が名産品である。箕面の「もみぢの天ぷら」の起源は昭和初期である。時を同じくして、「鯨肉の紅葉揚げ」ならぬ捻ったネーミングの「竜田揚げ」が誕生したとも考えられる✤。
✤もちろん具材そのものが赤身に加え、醤油漬けして赤く仕上げることによっても紅葉を連想させるのである。
保井芳太郎(1924)『龍田案内』たつたの里会、信貴生駒電鐵㈱(1927)『信貴生駒電車沿道名所案内』、戦前「大和龍田名所絵葉書」には、大正から昭和期の料理旅館が建ち並び舟遊びの“名勝龍田川”観光地の盛況ぶりを見てとれるが、芝野商店「業平餅・地蔵團子」の記事はあるものの、残念ながら龍(竜)田揚げは名産物に見えない。「もみぢの天ぷら」は販売されていた形跡があるが、竜田揚げは全く無い。決して郷土料理(家庭料理)ではなかったと思われ、戦後の料理教室やTVの料理番組から見出され、普及したと考えるのである。
箕面との共通点を探ると、現在の阪急電車の始まりの一つ箕面有馬電機軌道(明治43年創業)は、箕面大瀧観光・紅葉狩りの為の敷線であり、古くから「滝道」には土産物屋が軒を並べるが、名物といえば黄もみぢを塩漬けし砂糖と小麦粉で絡めて揚げる「もみぢの天ぷら」だ。老舗「久國紅仙堂」でも昭和15年創業なのだ。同じように信貴生駒電気鉄道(本社王寺・現在の近鉄生駒線)が信貴山朝護孫子寺への客を輸送の為に山下駅まで大正11年敷線、豊富な特産松茸狩りと宝山寺参拝客を沿線に運ぶのに生駒駅までを昭和2年に延伸(生駒駅~枚方駅延伸工事中)の際に山下駅と平群駅の間に「竜田川駅」を開設し、紅葉狩りの竜田川観光の最寄り駅としたのに観光地化が始まるようだ。春は吉野の櫻、秋は龍田の紅葉と大勢の観光客を定番のスキ焼などの松茸料理が迎えた。
ちなみに江戸期、寛政3(1791)年板行『大和名所図會(巻之三)』には、大和川亀ノ瀬の風景と紅葉瀬をイメージした龍田川を紹介しており、藤門周斎らの現竜田川の楓はまだ植林されておらず、筆者の思考範疇には無い。
今は竜田揚げと言えば鶏肉が定番だが、“竜田揚げと呼べるのは鯨肉”だけだ。鶏肉は「タッタチキン(Tatuta Chicken)」・魚は「タッタフイッシュ(Tatuta Fish)」と区別されるべきだろう。
四.結語
“竜田揚げ”と称する唐揚げの語源は、龍田明神の縁起と龍田の紅葉の美を描く謡曲「龍田」にも著す如く、「龍(竜)田川」の地名に由来し、その登場時期は、戦前からの箕面の“もみぢの天ぷら”ありきの中、鯨肉の薄っぺらの赤身肉が楓を連想させての命名であろう。戦後の商業捕鯨と安価だった肉を使った学校給食の中で産出され、昭和30年代後半からTELEVISION料理番組で浸透した家庭の主婦のレパートリーメニューとなったと考えてよいであろう。そして、鯨肉が食卓から姿を消した昭和50年代末頃には、鶏肉・魚肉にも応用され名のみが残ったと考えられる。よって“ほんまもんの竜田揚げ”は、鯨肉の薄切りで無ければならない。
✤「学校給食 もう一度食べたい献立」(朝日新聞2013/4/20朝刊)によると、1位クジラ肉の竜田揚げ2位揚げパン3位カレーライス…20位鶏肉の唐揚げ を挙げている。・「伝統食文化に高まる関心」(産経新聞2014/10/5朝刊)によると、国際社会から捕鯨への圧力が高まる中、高タンパク低カロリーのヘルシーな食材の伝統的な食文化として、今や高級珍味である鯨肉料理への関心が高まっている。東京都渋谷区恵比寿では、鯨肉を通じて街おこしを目指す、赤身の竜田揚げが大人気(¥1,400)。・「うまいもん-鯨料理ハリハリ鍋 作家・評論家唐沢俊一さん口いっぱいにナニワの食文化」(朝日新聞2006/11/20夕刊)。
✿「竜田揚げ斑鳩グルメに 紅葉名所奈良・竜田川から命名」(朝日新聞2013/11/25夕刊)・「“竜田揚げ”まちおこし 生駒・斑鳩由来の川」(読売新聞2015/2/11朝刊)・「ご当地グルメへ町挙げ取り組み-斑鳩 源流の生駒でも…」(朝日新聞2015/2/15朝刊)・「独特!生駒たつた揚げ エスニック・自然食・ハンバーガー…30店参加」(朝日新聞2015/5/31朝刊)。真実の歴史性を無視する物語の無い似非ものの横行の兆しは、悲しい限りである。
❀無知似非事の増幅、そもそも現竜田川は戦後の命名。龍田の川新名所作りの臨時駅「竜田川駅」開設による観光地名が誕生・川名も変えさせたのであって川面に浮かぶ紅葉から名が付いたのでは無い。萬葉以来の枕詞は今の日本人の記憶には無いようで、鯨肉食記憶でさえ頭中に無い出来事の様だ。唐揚げは何時からかは不明ながら昭和初期などではない。今でこそ唐揚げ粉は良く研究されているが、昔の小麦粉(メリケン粉:死後)も片栗粉も良くなかったのであり、ほんまもんの餅の取粉:片栗粉はカタクリの根の澱粉と認識すべきだ「食ナビ 奈良・竜田揚げ由来は川面の紅葉 竜田川名物へ流域高揚」(日本経済新聞2017/5/9夕刊)。
龍田明神の勧請が龍田の地名となり、平群川の一部が「龍田の川」になり、龍田の川が紅葉の名所に再生(風景写)されたことを記し、竜田揚げ諸説の紹介と由来の小愚稿を企てた。現竜田川のきっちりとした認識を頂くために、付け足しが多くなり無骨な長文になって終いました。
(○○会議特別寄稿抜粋加筆 初出:2013/4/4 鵤書林謹製)
【freelance鵤書林95 いっこう記】
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