法起寺(ほおきじ・ほっきじ) 名所旧蹟17

 法起寺は、聖徳太子が、推古天皇14(606)年法華経を講じ、創建した七大寺随一の一つとするが、岡本宮を山背大兄王(?~皇極天皇2〔643〕)によって寺に改めたと言うのが通説。古代には池後寺・岡本寺と呼ばれていたようだ。

 天武14(685)年、恵施僧正が発願の三重塔(景雲3(706)年落慶)が現存し、法隆寺塔の初・三・五重と同平面を持つ高さ26mの最古塔、法隆寺と共に世界遺産。伽藍は法隆寺と金堂と塔の配置は左右逆であること、方位を異にする下層遺構(岡本宮跡)が調査で確認されている。

 永禄年間(1558~1570)の戦乱に塔を残して灰塵に期したという。現在は西の勝手口門からの入山であるが、閉鎖中の南門本堂他聖天堂近世真政圓忍律師発願大聖歓喜天信仰による建物である。

 塔露盤銘をめぐって復元研究を行ったのは會津八一であり、最初に訪ねた頃は廃寺の様に荒れ果てていたらしい。昭和になり佐伯定胤愛弟子川西學猷(かわにしがくゆう・明治34〔1901〕~昭和27〔52〕・号無相「鵤舎」)が法隆寺僧と兼務し住職(檀家13・信徒150人・庫裏昭和18年完成)を務め復興に取り組んだ。學猷は無相の名で、東大寺龍松院寧楽會刊の佛教美術雑誌『寧楽』同人に名を連ね、什物売却によらない方策としていち早く法隆寺宝物の絵葉書・復刻書籍の販売を念頭に自ら写真撮影・紙焼し、昭和3~5年にかけて法隆寺史料複製第1冊『金堂日記』影印本、法起寺鵤舎叢書6巻7冊を鵤舎として刊行するなど、八一とは親密な交友があったようだ。また、昭和4~14年鵤故郷舎(佐伯啓造)刊の美術と信仰雑誌『夢殿』19巻21冊・考古と美術雑誌『以可留我』1巻6冊の監修者でもあるのだが、国立国会図書館はじめ我が国では混同・認知されてい無いのは悲しい。

 寺は、律口龍教師の後無住寺で、現在は法隆寺が管理する。法起寺土蔵から法隆寺宛て會津八一墨蹟などが高田良信師により発見され、八一と当時の法隆寺(定胤師)との関係を書き残して(2014「法隆寺学入門(五十二)」『聖徳』219)いる。墨蹟などは學猷に託していたものの、当時の法隆寺側には受け入れられていない様だ。尚、高浜虚子の描く『斑鳩物語』の塔はこの塔がモデル(8時~17時・11/4~2/21 16時半 入山料300円 ☎0745-75-5559)。

【freelance鵤書林62 いっこう記】

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