忍性菩薩(忍性良観)は、建保5年に大和国式下郡屏風(現磯城郡三宅町屏風)生れの鎌倉後期の真言律宗高僧である。叡尊に憧れ弟子となり、弘長1(1261)幕府の要請もあり東国(鎌倉)に赴き戒律を広め、北条時頼・長時らの帰依を得て光泉寺・極楽寺を開く。
貧者・病人の救済、道路・橋梁の構築にあたり、各地に非田院・施薬院を建てるなど社会事業・慈善事業に貢献し、幕府のある東国や大和にも多くの足跡を残している。嘉元1年に示寂したが、墓所は遺言通り鎌倉極楽寺・平端額安寺・生駒竹林寺の三箇寺に分骨された。立派な五輪塔に弟子達と眠っていた事が三箇所それぞれの発掘調査で確かめられ、同意匠の金銅製蔵骨器が多数の追葬臓骨器(一括重文指定)と共に出土している。
【freelance鵤書林45 いっこう記】
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