興正菩薩叡尊(叡尊思円)は、建仁1年大和国添上郡箕田の里(現大和郡山市白土町)の生れの鎌倉期の稀代の高僧である。
自誓自戒し朝野の帰依を受け、西大寺を再興し荒廃した南都佛教に密教において戒律を重視した教え(真言律)、「釈迦の教えに帰ろう」と唱え西大寺系律宗を確立した。目的としたのは戒律による下層民の救済にあり、受戒者は6万人を越えたという。「興法利生」をスローガンとする教団は南都の諸寺のみならず畿内の寺々の復興、非人救済・殺生禁断・架橋などの社会事業に貢献し大きな影響を与えた(教団は10萬を超える信者を有する鎌倉期最大の教団であった。教科書の鎌倉新佛教の中に欠落しているのは無知の極み)。
西大寺本尊は建長1(1249)年叡尊が佛師善慶らに京都清凉寺佛を摸刻させた重文釈迦如来立像で舎利信仰が基本となっている。正應3年に示寂し、墓所は西大寺奥の院に叡尊塔として長大な五輪塔があり、後の関西系五輪塔の雛形となったと考えられる。弟子達が造立発願の80歳の寿像興正菩薩坐像は、近年国宝指定となったのを記に「ぼさつの寺めぐり・御朱印授与21箇寺」巡礼が始まった。
【freelance鵤書林44 いっこう記】
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