10/中旬 松山町(まっちやまち)華小路ダリア花じゅうたん 福島正則弟高晴と史跡宇陀松山城址・支配と城下

   宇陀松山町(現宇陀市大宇陀区松山・伝統的町並み保存地区)は、戦国期は宇陀三將の「秋山氏」が統治した城下から始まった(榛原地域は澤城の澤氏・菟田野地域は芳野城芳野氏)。“秋山右近直国”が去った後、古城山の地の宇陀松山城は豊臣政権のもとで、大坂の前衛城郭を兼ねた郡山城・高取城と並んで大和支配の拠点として誕生した。城は30余年と短命でその役割を終え、一部は神社の境内地や生活の場として存在してきた(唯一の遺構として早くに史蹟に指定の黒門と称する西口関門は有名)が、平成7年から始まった発掘調査成果から16世紀末の豊臣家配下の大名により大規模な改修・築造が行われている事が判明した。主郭部分は総石垣で構築され、大規模かつ複雑な枡形虎口の採用、礎石建物、大量の瓦の使用など織豊系城郭の特徴を極めて良好に残すことが明らかになった。城割の状況が明確に押さえられたことから文禄・慶長期の城郭構造を凍結した状況の保存状況から平成18年7月国の史跡の指定を受け、平成29年4月には日本城郭協会から「続日本100名城」に選定された。天守に相当する多重の櫓建物の存在が特定でき、「酢漿(かたば)草(み)文」の家紋鬼瓦が共伴したことから文禄元(1592)年に城主となった“多賀秀種”が本格的整備を進めた事が判明した。関ケ原の後の慶長6(1601)年に「松山」と改名し松山藩として“正則弟、福島掃部頭高晴(正頼)”が宇陀98村3万1,717石領有した。しかし粗暴につき13年余で伊勢国山田へ蟄居所領没収となる(兄正則の廣島藩没収蟄居と共に数奇な運命である)。元和元(1615)年豊臣氏滅亡後、“信長次男織田信雄”が家康により5万石の封地を賜る。後上野国小幡2万石を四男信良に分かち五男高長が3万1,200石で宇陀松山藩2代藩主になり、町西の中ノ庄長山麓に織田陣屋を開く。4代“信武”が乱心自刃の為廃絶となるも、元禄8(1695)年後を継いだ“信休”が丹波国柏原藩2万石を与えられて国替えとなっている。このことを大和では「宇陀崩れ」と広く伝えて来た。以後、織田松山城下16町は幕府領となったが、六斎市が開催されるなど宇陀郡の中心的町場とし繁栄した。

 近年小規模ながらも町起こしのイベントとして定着しているのが、毎年10月の2日間開催されるダリアの花びらの花アートイベント「華小路」である。夏8月の下旬の3日間は、宇陀松山夢街道町並ライトアップも定着化して来た。

【freelance鵤書林10 いっこう記】

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