御坊山古墳群―
太子一族上宮王家の墳墓の地
竜田御坊山古墳群は、藤ノ木古墳から谷を隔てた西約250mにあたる。〝御坊山は御廟山〟の転訛と思われ、現在は大半が早くに錦ケ丘住宅開発で尾根・谷諸共消滅している。古墳3基の址と甲塚がある。
7世紀の半ばを下らない7世紀前半の築造である事、多葬や棺内に押し込める正常では無い状態の埋葬法である。その事から皇極帝2(643)年の蘇我入鹿主導斑鳩宮襲撃による太子一族上宮王家滅亡事件を重ね、王家の墳墓地であるとの考えが有力視されている。
1・2号墳は昭和39年奈良県遺跡調査室が重機で破壊された時の立会調査で、墳丘等は不明であるが丘陵南斜面に築造された終末期古墳の立地をとる。1号墳は竪穴状の施設(横口カ・小石室カ)に3体の人骨と木棺の金銅製環座金具と鉄釘を検出。2号墳は小規模な横穴式石室に組合せ式石棺の一部を確認した。
翌40年の工事中の発見の御坊山3号古墳の緊急調査では径8m・高さ2.5mの円墳を確認し、他に例を見ない長さ1.46mの黒漆塗陶棺を納めた7世紀中葉の横口式石槨墳を検出(石を繰り抜いた底石・身と蓋は橿考研付属博物館で野外展示・最近は車庫に収納中)。身長150㎝前後の14・5歳の男子の遺骨と共に頭部に巨大琥珀製枕に日本最古の隋代舶載三彩有蓋円面硯とガラス管の筆軸が出土。共に国指定重要文化財・県保管。
100m離れた住宅に取り囲まれるように唯一現存している径10mの小山が甲塚古墳で、太子の孫甲可王墓の伝承がある。
蛇足ながらこの地で、昭和53年住宅住所表示を「法隆寺から龍田北」への改変を巡って東斜面85世帯の新住民が起こした「地名変更無効訴訟」は最高裁まで行って全国的に話題になり、住民敗訴となったことがあった。元々この地は、且元支配の近世期法隆寺村領と龍田領を巡って山界の相論の地なのであり、4町歩(12,000坪)は、「文化5年龍田新宮絵図」には除地山になっており、明治9年上地・34年払下げ、昭和33年土建業者売却の経緯だったのだ。文献:『竜田御坊山古墳』奈良県史蹟名勝天然記念物報告第32冊1977
【freelance鵤書林196 いっこうA7記】
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