龍田大橋と冠松―
龍田城大手・龍田神幸御旅所
勢野の丘陵に続く神南山から西ノ山・峨瀬の山並は、「坂門郷丘一地」(法隆寺領の西の限り)と言う記載で古く『法隆寺流記資財帳』に見えるが、住宅開発で往古の面影は微塵もない。龍田大橋から西ノ山へ向かう奈良街道の坂道を〝椎坂(しいさか)〟と称し『聖徳太子伝暦』などに見える重要な坂である。太子16歳の時白髪の翁(龍田明神)と出会い「東にほど近い里に佛法興隆の地がある。我また守護神になろう」と告げられた場所なのである。
椎坂から下った龍田ノ川(西ノ大川)に架けられた龍田町場の玄関が「龍田大橋」である。今は名ばかりの昭和40年施工を経て、59年に架け替えられた国道25号の3径間鉄桁コンクリート橋であるが、大正期から昭和30年の古写真を見ると幅3間・東西長さ20間余の木造高欄付の反りのある風雅な橋である。恐らく龍田城築城の折りに整備された正門としての橋の姿は修理架け替えを経ても350年間は変わらなかったのであろう。橋からは「全幅の紅葉をほしいままに鑑賞し、立田山を背い、生駒の円頂を望み信貴の灯を迎へ、南遠く金剛・葛城の翠曫に対し四時の眺め、……三室の山の時雨を望んだ時は、言葉に絶しがたい風趣。〝紅葉人の手づれに光る擬宝珠かな(機楼)〟」橋は、金春禅竹作の謡曲「龍田」の紅葉の名所舞台でもある。
「菅公縁の冠松(かんむりまつ)」は、大橋西詰にあった中空に聳えた二・三の老松である。我が国書三聖の一人〝菅原道真公が龍田を通過せられた時、あたりの風光を激賞せられ、此の松に冠(黒羅作の頭巾)を懸けて憩われた〟と『扶桑略記』に見える。
この地の川畔は龍田新宮へ遷幸祭の御旅所(「竜田明神神輿休所」)にあたり、〝御幸の松(みゆきのまつ)〟とされ、影向の松でもある。遷幸祭は旧暦(明治4年以前の太陽太陰暦)9月13日が記録されている(現在は新暦に置き換えて10月15日例祭・14日宵宮であるが、近い土日曜日に現代版の布団太鼓台引き回しをしている)。
【freelance鵤書林188 いっこうB13記】
0コメント