太子の黒駒伝説と駒塚古墳―
東福寺・維新百傑伴林光平の庵・句碑
大字東福寺所在の「駒塚古墳」(南北主軸の全長49m以上の前方後円墳(60m程度)・後円部径31.5m・前方部幅18m・主体部は粘土槨、普通円筒埴輪・土師器出土、中期前葉)は、『和州旧蹟幽考』に〝駒塚〟と見え、太子の神秘の愛馬黒駒(甲斐国より献納・太子と共に諸国を周り、富士山にも飛んで行たと云う)を葬ったとする。また、従丁の「調子麻呂」(舎人調子丸(麻呂)は太子13歳の時百済から来た国聖明の弟で日夜奉仕して84歳で亡くなったと云う)の墓と伝承するのが、東に位置する径14m・高さ2.5mの円墳「調子塚古墳」(普通円筒・器財埴輪出土)である。駒塚古墳は段築・葺石を伴う4世紀後半の築造で斑鳩大塚古墳より後出する中期古墳。小規模ながら前方後円形をとるのが重要である。また、周辺部の発掘調査において、一辺10m程度の埴輪を伴った〝方墳3基〟が確認されており、駒塚を首長とする古墳群が存在するらしい。
両古墳の間にあったのが「東福寺」で、一説には〝陵寺〟という。『大和名所図会』には、観音堂・薬師堂の堂宇が描かれている。寺の縁起は詳らかでは無いが、観音霊場古刹であったと伝え明治に至って廃寺化、字名のみを残す。周縁部の住宅開発の発掘調査からは、中世前期の掘建柱建物・溝で構成される集落が確認され、瓦器・土師器製品の中世遺物が出土している。駒塚周辺は新興住宅化され、現在柵で覆われた駒塚は中宮寺の所有地で、近世大形宝篋印塔が建てられていたが、文化財指定調査を口実に教育委員会により解体され長らく放置されている。
幕末東福寺に住したのが、伴林光平(ともばやしみつひら・文化10(1813)年9月、河内・志紀郡林村浄土真宗尊光寺住職雅亮の第二子として生れる)である。八尾の教恩寺住職をも務めた〝国学者〟にして〝歌人〟である(幼名信丸・通称六郎・法名大雲坊周永・雅号は「蒿斎・園陵・篠屋・斑鳩隠士」、還俗して伴林光平)。伊丹の〝中村良臣〟に歌を学び、因幡にて〝飯田秀雄〟に国学を習い、紀伊に行き〝加納諸平〟の門に入る。並木春蔵と称して江戸の〝伴信友〟の弟子になる。密かに天下の形勢を見て、〝国学は皇道の発揮皇威の顕揚にありし〟とし、山陵の荒廃を嘆き大和河内を調査し、こと天聴に達し感状を受ける。〝維新百傑〟の一人に数えられる。
文久3(1863)年8月に起こった「大和天誅組の乱」に自らも「勘定方」で参加し、記録『南山踏雲禄』を残すが、敗走中北倭田原で弟子でもあった奈良奉行所役人に捕縛され、元治1(1864)年2月1日、52歳で京都四条河原斬首されている。明治24年に名誉回復(従四位追賜)されるが、その事により今日歌人としての評価が低い。その道の有識者からは芭蕉や蕪村と並ぶ〝近世歌聖人〟の一人と言われるのも事実である。
大坂・堺・河内に多くの門弟を持っていたが、文久1(1861)年中宮寺宮の求めに応じ〝侍講〟として〝法隆寺村東福寺に移庵〟した。親友今村文吾との関係が大きかったと思われるが、ここでも多くの弟子に慕われ世情不安な〝尊王攘夷思想〟に耳を貸すものも多く居た。俳句集『垣内摘草』には門人句も多く収録されている。
駒塚前方部に辞世の歌碑「君が代は 巌とも動かねば 砕けてかえれ 沖つ白波」が建つ(若き光平が佛教論理学「因明論」を納めた法隆寺寶光院・生誕の地尊光寺境内にも歌碑あり
)。志士・伴林光雄(芳太郎・弘化4~明治14年)は、実子。
【freelance鵤書林174 いっこうC16記】
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