依水園主人・關藤次郎(せきとうじろう・1864~1931)は呉服商であり、明治ならまち七人衆一人の実業家であった。元治元(1864)年、代々絹布麻布を商う繊維問屋の關藤右衛門の長男として誕生。幼少より和歌・漢詩に親しみ、茶道・絵画へと数奇の世界を極めていく。
屈指の豪商で制限選挙(納税額による)制度下では、市會議員・市参事會員を勤めた。市長に推挙されたが固辞したといい、実業家と文人を貫いたと言う。
今村勤三と共に鉄道事業に参画し、郡山紡績を興している。中村雅真と貯蓄銀行も設立。奈良瓦斯会社社長・六十八銀行(南都銀行前身)頭取も務め、政治的野心の無い温厚な文人で、茶席を愉しみ歌を詠む風流人であったとも言う。
点茶を裏千家に学び「宗無」と称し、漢学を大阪の儒学者藤澤南岳の門で修めた。漢方医石崎勝三の主宰する和歌の〝寧楽會〟のメンバーとしても知られている。
明治30年代からは別邸として水門町に庭園・建物を次々に増築、高い見識と奈良古物への思慕から〝依水園〟と命名して多くの文化人との交流の場とした。月を主題に依水園の百景を墨彩画と漢詩で紹介した書物『百月帖』(藤澤南岳題・越智宣哲撰・西澤對竹画1906・07)は10冊(半月形冊子・開くと満月形)に上る。北畠治房は『観依水園記』1909・10を著し、藤次郎宛書簡を明治33~44年に複数認めている。子息信太郎は三回忌の昭和9年『於茂悲くさ』を編でいる。
關信太郎(せきしんたろう・1884~1962)は、父藤次郎の跡を継いで二代目依水園主。明治17年10月5日下御門町で生れる。麻布商いの豪商であり、実業家。
明治36年京都市立商業高校を卒業後、奈良瓦斯会社(現大阪ガス奈良営業所)創設。昭和初期頃には、奈良自動車(奈良交通の前身)社長の要職にあり、奈良県の電車敷設の計画を発表するなど大抱負を持っていたと言う。
父の業を助け公私に広く関係し、県内実業界の大立物として信望があったらしい。ヴィリヨン神父の教会建設やザヴィエル顕彰碑建設募金にも多額の寄付をしているのが確認される。奈良ロータリークラブ・奈良郷土會・奈良電鐵・関西急行鐡道監査役・奈良地裁・奈良家裁調停委員を務め、従六位勲六等瑞宝章を受ける。晩年は依水園に蟄居して佛教三昧であったらしい。
奈良観光事業の先覚者とも言われている。昭和37年7月24日歿す。衆議院議員關俊吉氏は弟。
關家本邸は下御門町にあった商家造りだが藤次郎逝去後、子息信太郎が呉服卸商宮島善治氏に譲渡し宮島氏も昭和60年に自主廃業、南半分の座敷棟・茶室・庭園のあった敷地は都市計画ならまち大通り道路で削られた。藤次郎が増築した築130年の洋館と本宅商家は今、鰻の江戸川と酒房蔵乃間になっている。
【freelance鵤書林134 いっこう記】
0コメント