なら 名勝依水園と關藤次郎 (南京観光豆知識14)


    奈良市の名勝依水園(いすいえん)庭内の寧楽美術館が開館から60周年で初の開催となる「依水園主人關藤次郎の軌跡」と称した遺品を並べた回顧展覧にあたり、園と藤次郎について記す。展示48点資料の展示図録・展示目録・解説書が皆無の中、知り得た事柄を記録しておく

   奥山から流れ出る吉城川(よしきがわ)の水量豊かなこの地は、元来中・近世と高級麻織物ブランド・〝奈良晒(ならさらし)〟の晒し場であった。興福寺摩尼珠院別業(『奈良坊目考』)があった場所に寛文12(1673)年奈良晒御用商人の〝清須美道清(きよすみどうせい)〟が別邸の茅葺屋根〝三秀亭〟(さんしゅうてい:三つの山景色・宇治黄檗山木庵禅師命名)を建て作庭したのが、〝前庭〟である。東大寺参詣の大名方・役人を接待したらしい。池の中程に鶴亀に準えた中島二つを演出し、要所に燈籠を配す。

   時は下って明治33(1900)年明治の豪商・実業家〝關藤次郎(せきとうじろう・1864~1931)〟が、東大寺西南院址に茶の湯と詩歌の會を愉しむ為に、裏千家十二世・又妙斎宗室(ゆうみょうさいそうしつ)の協力を得て明治大正期流行を建設作庭したのが〝後庭〟である。庭は千家出入りの堀越京庭師林源兵衛が事にあたったと言う。

   東大寺南大門・若草山・春日山・御蓋山までを借景にした広大な敷地に築山を設けた池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)で池とそれに映る150種の植物と広がる空までも取り込み、6mの高低差を利用した滝・小川の水音までを風景にした空間だ。書院である氷心亭(明治30年解体修理新薬師寺本堂古材購入、44年施工)、挺秀軒清秀庵(明治44年施工)・寄付(よりつき)・水車小屋柳生堂(柳生芳徳寺より譲渡移築)・中島への 沢渡り(さわたり:飛び石・糊を作る米を磨り潰す石臼12や五輪塔返連弁台座群10基)、東大寺七重西塔の大形塔心礎や礎石多数が配され様々な角度からの景色を感じ取ることが出来る。特に15時以降の西日の光アップが良い

    春は紅梅・染井吉野・平戸躑躅、夏は睡蓮・皐月・菖蒲・杜若、秋は伊呂波楓紅葉、冬は雪景色と新緑若葉の美・紅葉の美のニッポン文化が感じられる。

   其の後庭園一式は、昭和14(1939)年海運業で財をなした神戸の中村準策(なかむらじゅんさく・1876~1953)が買い取ったが、敗戦から昭和27(1952)年まで進駐軍に接収されていた。昭和27年から中村家によって修復が努められ、昭和33(1958)年6月1日公開に至っている。平成16年から国庫補助金を得て原形に復する手入れが開始された。

    前庭と後庭の異なった2つの奈良を代表する池泉回遊庭園は、3,400坪(11,000㎡)を誇り、昭和50(1975)に国名勝指定を受けている。

    依水園の名は、杜甫の漢詩名水依緑水」の句に由来するが、吉城川の〝水〟に〝依〟ってせせらぎに池がつくられたからと言う俗説を説明するボランティアには驚く。前園は素朴な庭として寛げ、後園は、視界が開ける広大な空間が現れる大胆な庭として、日本庭園の二つの時期の異なる二種の庭園が体感できる

   近年の欧米における日本庭園ブーム(海外の日本庭園専門誌上で6位)で3年前の四倍に外国人が急増、入園者の44%が外国人でオフシーズンでは8割を占めると言う人気スポットである。現在は、公益財団法人名勝依水園・寧楽美術館が運営管理する。(奈良市水門町74 火曜休・4・5・10・11月無休・大人¥900・6/1開園記念日は¥500)

【freelance鵤書林133 いっこう記】

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