法隆寺再建非再建論争 (南京観光豆知識11)

 法隆寺再建非再建論争とは法隆寺の伽藍建造物が我が国最古(=世界最古木造建造物)である事から、建築史・美術史・文献史学・考古学・金石学の諸家を巻き込んで、明治末期から半世紀にわたっての学会挙げての大論争

 非再建先鋒の足立康(あだちやすし・1898~1941)・総師建築史碩学関野貞(せきのただす・1867~1935)と反駁し再建論の主張論陣をはったのは喜田貞吉(きださだきち・1871~1939)である。喜田が水木要太郎(みづきようたろう・1865~1938、号十五堂・重鎮「大和の水木か水木の大和か」)の勧めで北畠男爵邸を訪ねた話が裏話として伝わる。

 事の始まりは、明治32年黒川真頼(くろかわまより・1829~1906)と小杉榲邨(こすぎすぎむら・1834~1910)が『紀』天智9(670)年庚午4月壬申(30日)条「一屋余すこと無く」焼失記事によって創建法隆寺は焼亡し、現在の伽藍は和銅年間(708~15)に再建したものと言う説を唱えたが、伽藍建築(中門・金堂・塔・回廊)が大化以前の高麗尺を使用していると言う建築様式論を基礎において38年関野貞博士と平子鐸嶺(ひらこたくれい・1877~1911)が非再建説を提出した。

 それに対して喜田が史料整理を加えて再建説を主張展開した。會津八一(あいずやいち・1881~1956)も昭和8年新説をもって参戦。昭和14年若草伽藍心礎返還を機に、石田茂作(いしだもさく・1894~1977)・末永雅雄(すえながまさお・1897~1991)の字若草の塔心礎周辺の発掘調査によって四天王寺式の伽藍配置の寺院跡が発見され、一応の決着(1次論争)を見るが、足立康の二寺併存説も飛び出し、塔解体調査(地下式心礎・埋納舎利鎮壇具の発見)・戦後の若草伽藍地点再調査防災関連調査寺外発掘調査成果(焼失瓦・壁土壁画の発見)芯柱の年輪年代調査等で新たな疑問点・矛盾が指摘されている。

【freelance鵤書林80 いっこう記】

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