聖徳太子信仰いきづく前述の3・4を中心とした「いかるが文化圏」というべき旧平群郡(生駒郡南半)から旧廣瀬郡・旧葛下郡(北葛城郡)の西大和地域の食文化について記す。
「いかるが」文化圏とは、単に我が国「あけぼの飛鳥時代」の聖徳太子ゆかりの史跡を色濃く残す地や1947年2月に発足した自治体斑鳩町を指すのでは無い。漢字異体字で「以可留我・伊珂留我・伊加留我・伊加流我・鵤・鵣」と記された地域を指し特定の地名では無く、斑鳩「まだらばと(ハト目ハト科のジュズカケ)」が群れをなしていた地に厩戸皇子(聖徳太子)が居住して斑鳩宮・斑鳩寺を建て、太子の創った理想郷の地域一帯がそう呼ばれたようだ。
この地域は、平安期以来の我が国仏法の根本とされた聖徳太子を神格伝説化した「太子信仰の精神文化」が息づいた地域である。地理的には、大和川龍田越えを軸に奈良~大坂を結ぶ交通の要衝の地であり、常々多くのドラマが展開した悠久の歴史が息づく文化を育んだ地でもある。その地域信仰の展開した中心寺院は法隆寺・薬師寺・金剛山寺・朝護孫子寺・松尾寺・達磨寺・當麻寺で、法灯が守られた寺々の庶民信仰と共に食文化を育くみ展開した。
「和の食」の食文化は、地域色豊かな気候・風土・歴史の中で育てられ洗練された日本人の食すべてと幅が広いが、伝統行事とは密接な関係の上に成立してきたのである。しかし、“古きゆかしき食と味”郷土料理を知る人も八三歳を越えた。
地域の人々は、伝統的暮らしの季節リズム(年中行事・人の一生の節目)で生活し、日常のアイ(ツネ)「褻(ケ)」とトッキョリ(時折)の「晴(ハレ)」の食文化である。年中行事と結び付いた農作物中心の食と川魚や鳥肉のタンバク源と他所からやってくるトッキョリの具材、供物を兼ねた餅をよく搗き食す文化である。
農村の場合一日の食は、5時朝はん・朝間炊(けんずい・四ツ)・昼飯・昼間水(けんずい・八ツ)+ほうせき(冬:かき餅・きりこなどのおやつ)・8時夕はん(晩)五食のアイ食以外のトッキョリ「ごっつお(ご馳走)」がある。
トッキョリは季節の節目行事であるが、師走のオウコ(同行・報恩講)・正月三箇日・とんど・小正月・かんせんぎょ(寒施行)・桃の節句・彼岸・春ごと(岳上り)・レンド(レンゾ・連座)・春祭(結鎮・御田)・端午の節句・さなぶり(半夏生)・七夕・土用・お盆・おひまったん(日待ち)・秋祭・月見・講(明神・伊勢・庚申)・亥の子・大つごもり等がある。人の通過儀礼では、見合い・結納・衣装見せ荷飾りと婚礼、帯祝・誕生と宮参り・お食初め、七五三・お稚児さん・十三参り。厄落とし・還暦・古稀・喜寿・米寿と葬儀が大きな行事である。その他に新築とかの祝いもある。「大和にうまいもんなし」の俗謡があるが、そのままを受け取ってはいけない。単に特別なものは無いと言っているのであって、京や大坂に比べて田舎だと言っているのである。「いも・たこ・なんきん」は美味しい。
また、「日照り一番・水つき一番・嫁にやっても荷出すな!」・「他所不作で大和豊年・大和豊年米食わず!」の俗謡もよく聞いた言葉で、水不足に苦しめられてきた農民生活を物語っている(因みに戦前の吉野川分水工事以前でも大和の水稲は、「奈良段階」〔反:三石五斗〕と称せられ全国最高水準を維持していた事も遠い昔の事となった)。
[拙稿『奈良大和の食文化を考える』2015/3/14抜粋]
【freelance鵤書林98 いっこう記】
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