鳩(はと)と斑鳩(いかるが)のイカルの関係ついて、ほんまもん(真実)を記録しておこう。
「ぽっぽ」こと鳩は、上古より八幡宮(神)のお使いとされる鳥で、寄り添う習性から夫婦和合や平和などの象徴としても知られている(近年は携帯電波や生態系頂点に立ったカラスの関係で最近はめっきり数を減じたものの一時野生かした土鳩を多く認めた。それらは日露戦役以後軍隊の伝書鳩が野生化したもの)。故事にも登場し絵画や工芸品にも写実的なものから家紋の様にデザインされた物まで様々に表わされている。
八幡神は、豊前国宇佐八幡宮に起源を持つ古代末以来国家寺院鎮守から道俗男女集合の庶民信仰の神である。特殊神事である我が国最古の放生会神事(仏教的法会)でも放鳥の慣習が知られている。
大和の「いかるが」地域の清水山吉田寺や松尾山松尾寺でも放生会・一の午日には「鳩にがし」の会式が伝わる。また、一昔前までこの地方の大和棟農家では納屋に鳩小屋を設けて鳩を飼育(菜園の肥料として糞を得る為)していて、お葬式には「鳩にがし」の風習があった。大和棟住宅棟両端の鳥衾瓦の屋根には瓦製の鳩が火伏として飾られてきた。火伏の象徴となったのは、平安末期の仏教説話集『今昔物語』に見え薬師寺南大門が火災の折り、斑鳩(まだらばと)の大群が飛んで来て鎮火したと言う故事から瓦師の鬼師(瓦職人親方)が採用した意匠で一八世紀以降大和棟住宅形式の拡散と共に広がっている。今は日本一美しいとされた住居形式と共に意味も忘れられ残り少なくなった。
斑鳩(いかるが)のイカルとは、「まだらばと(ハト目ハト科のジュズカケ)」を指し町章始め幼稚園・小学校・中学校の校章に図案化されている。行政町誕生(昭和22年2月)以前は、特定の地名では無く、斑鳩が群れをなして住んでいた地に厩戸皇子(聖徳太子)が居住して斑鳩宮・斑鳩寺を建て、太子の創った理想郷の地域一帯がそう呼ばれたようだ。太子信仰の高揚によって創出された地主神「伊加留我志古男之神」が法隆寺境内惣社に12世紀中葉(仁平3年)から幕末まで祭祀された事実がある。
異説ではスズメ目アトリ科の「マメマワシ」を「イカル(鵤)」と読まして、それが群がる地であったので、斑鳩の地名が起こったとするのは近年考え出された逸話である(恰もそれが真実の様に無知似非事が流布した事が悲しい)。
だから太子信仰根付く「いかるが」地域は、鳩(ぽっぽ)との縁が深いのである。斑鳩の異体字は、「伊加留我」「伊加流我」「鵤」「鵣」と記す。また、小吉田(近世以前は吉田村。平群郡内の二箇所の吉田村を区別する為に「小」が付けられた事実)の清水八幡神社は吉田寺(本尊重文木造阿弥陀如来坐像・平安後期)の前身「紫雲山顕光寺」(興福寺衆徒龍田入道の菩提寺)鎮守であり、九月朔日の鳩にがし放生会の起源はその辺りに探れそうである。
これらの故事や習慣を現代風にイミテーションしモビールに仕上げたものが、Kakimoto iron worksの「ぽっぽさま」である。
「あさなあさな わがてにのぼる いかるがの あかきあしさえ ひえまさるかな」
秋艸道人『渾斎隋筆』昭和17年から
(初出典:2015年1月15日拙稿《カキモトポップ鵤書林謹製》加筆)
【freelance鵤書林82 いっこう記】
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