會津八一の定宿は、法隆寺村五丁町の芝ノ口にある大黒屋ではなく、「かせ屋(加世屋)」であった様だ。
高浜虚子(1874~1959)の短編小説『斑鳩物語』1907の書き出し「法隆寺の夢殿の南門の前に宿屋が三軒ほど固まってある。其の中の一軒の大黒屋といふうちに車屋は梶棒を下した。急がしげに奥から走って出たのは一七八の娘である」で始まる、鯱を乗せた木造二階建て展望閣の付いた(三階)楼閣風の名物旅館大黒屋の並びにあった。現存の大黒屋(休業中・元場所は駐車場地)他二軒は戦後廃業。確認できないが、戦後一時期大国屋の東側にあった料理旅館「銀水閣」が二軒の一つ「かせ屋」の後進であった可能性がある。もう一軒は、「みかづき屋(三日月屋)」と言ったらしい。(大黒屋は明治10年創業、文人の宿と称し宿帳に高浜虚子・芥川龍之介・木下利玄・志賀直哉・里見淳・堀辰雄・速水御舟・北村西望の名あり)。
小説では娘(お道)と法起寺の小僧(了然)との悲しい恋を筋とした斑鳩風物詩であるが、クライマックスで「彼女の機織る筬の音を聞く」のが八一にとってのミソであるのだ。虚子が訪れた翌年初めていかるがの里のかせ屋に宿し「昨夜ビールと酒とを、ちとたんと飲み、宿の婆さんにあきれられ候。……真桑瓜をひやしてくれ候。こんなうまい瓜をくったことこれなく候。……」と義弟桜井天壇に書簡を認めた。
【freelance鵤書林63 いっこう記】
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