佐伯定胤大僧正(さえきじょういん1866~1952) 大和歴史人物事績3

 法隆寺管主法相宗勧学院(戦前法隆寺にあった佛教専門学校)院長をつとめた定胤大僧正は、慶応2年6月25日大和国平群郡法隆寺村並松の嘉平の次男に生れる。近代法隆寺の祖千早定朝(1823~1899)の後を継いで管主になり、荒廃甚だしい近代法隆寺一山を立て直した中興である。

 昭和2年の防災事業昭和9年から始まった国家直営昭和大修理(昭和30年まで)を推進、我が国初の鉄筋造り寺院収蔵展示施設「大宝蔵殿」建設、援助会二十二日会聖徳太子奉賛会勧学院運営・同窓会戦時の大疎開と供出壁画焼失事件対応等も定胤時代に橋本凝胤(1897~1978)・吉田覺胤(年譜不詳)・川西學猷(1901~1952)らの弟子達と奔走した。幼少より苦学力行して妻帯しなかった僧侶。号は「不東」。

 明治13年奈良教師教校5年間研修、17年より7年間泉涌寺に俱舎・唯識・因明の幽旨伝授。26年興福寺にての法相宗学頭を経て法相宗勧学院院長。30年法隆寺副住職、探題・僧正に補せられる。32年法相宗管長事務取扱・大僧正。36年法隆寺住職兼管主41年から薬師寺住職を兼務し、大正3~6・昭和7~10・16~19年法相宗管長の職にあり、興福寺より勧学院を移して法隆寺法相宗勧学院を設け、宗派を超えて多くの僧侶に慕われ学び舎となった。自身、東京帝國大學にて毎週唯識の講義に赴いた。夏安居の信徒に噛んで含める講話は定評があったと言う。

 最大の檀越5代武田長兵衛(重太郎1870~1959・武田薬品中興祖、天明元年初代創業・葛下郡片岡里薬井出身)が、鉄筋建の閲覧室付書庫「鵤文庫」を建設寄贈するのも信仰と定胤との交友によった。番頭弟子は薬師寺近代の祖橋本凝胤(昭和18から地蔵院主、薬師寺管長)である。戦後、法隆寺勧学院(昭和19年戦時休校)は再興されなかったが昭和25年法隆寺住職法相宗管長となるも、法相宗を離れ「聖徳宗」を創設、住職・管主を法隆寺村西里生れの佐伯良兼(1880~1963・昭和7年興福寺より入寺)副住職に譲る。昭和27年11月23日遷化、光明山極楽寺墓地に葬られる。(太田信隆〔1976〕『まほろばの僧-法隆寺・佐伯定胤-』東京:(株)春秋社〔後文庫化1983『新法隆寺物語』東京:(株)集英社〕)

【freelance鵤書林38 いっこう記】

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