阿波国那賀郡櫛淵(現徳島県小松島市)の農家で明治4年に生れる。昭和14年逝去・享年68歳。喜田貞吉博士は、歴史学の泰斗だけでは無く、常に和服姿で信玄袋をぶら下げた風体で、義を貫く懐の深い人物であったようだ。明治末期から大正・昭和と学会の一大関心事「法隆寺再建非再建論争」の渦中の人でもある。第三高等学校を経て23歳で東京帝國大學文科大学に入学・明治29年国史科を卒業し、大学院に進む(研究題目「日本の歴史地理」・同大学講師)。
明治34年文部省図書編修官として国定教科書の編纂検査(中等教科書『日本地理』・『外国地理』・『日本中地理』)にあたるが、44年小学校歴史教科書に南北朝併記「南北朝正閏論」が非難され政治問題化し休職処分を受ける。大正2年京都帝國大學専任講師・9年教授・13年辞任、前年に設置された東北帝國大學国史学研究室講師となる。明治32年より日本歴史地理研究会(のち日本歴史地理学会)を組織し、雑誌『歴史地理』発行。その研究は文献史学に止まらす、考古学・民俗学・地理学の成果も取り入れ柔軟に学問を進め研究領域は大変広いが、特に古代史に新機軸を開き貢献。「平城京の研究・法隆寺再建論」で東京帝國大學にて学位取得。
建築史家関野貞(せきのただす・1867~1935)との法隆寺論に反駁し、考古学では高橋健自(たかはしけんじ・1871~1929)と古墳の年代決定論・濱田耕作(はまだこうさく・1881~1938)との古代民族について・山内清男(やまのうちすがお・1902~1970・縄紋の父)と石器時代の終末をめ巡って(ミネルヴァ論争)など学問の矛盾を本音で論争を繰り広げた精力的な歴史家でもある。その他にも飛鳥浄御原宮・藤原宮など諸宮所在地論、畿内勢力と畿外勢力との王朝交代論、古墳墓論や近世の歴史地理・未開放部落問題等も取り扱っている。
奈良・斑鳩へも度々足を運び同郷工藤精華堂工藤利三郎(くどうりさぶろう・1848~1929)や鵤故郷舎佐伯啓造(さえきけいぞう・1905~1973)、考古学徒であった梅原末治(うめはらすえじ・1893~1983・BronzeUMEHARA)や出羽・仙北郡出身の深澤多市(ふかざわたいち・1874~1934)など学術的師として生涯応援し、身寄りなき工藤には臨終の世話もしたらしい。(山田野理夫〔1976〕『歴史家喜田貞吉』東京:宝文館出版、1979~82『喜田貞吉著作集』全14巻 東京:(株)平凡社)
【freelance鵤書林37 いっこう記】
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