法輪寺(いっこう寺社解説16)

 妙見山法輪寺は「法琳寺・三井寺」とも別称され、推古30(622)年太子の病気平癒を願って息子山背大兄王・その子由義王によって建立されたと伝える(『聖徳太子伝私記』「御井寺勘録寺家資材雑物等事」)。昭和25年の発掘調査で法隆寺西院伽藍の2/3の規模の右に塔・左に金堂、後方に講堂と確認された。寺前三叉路、松大木跡地点が南大門址。出土した複弁八葉蓮華文・均整忍冬唐草文の法隆寺式軒瓦は、『上宮聖徳太子伝補闕記』の天智9(670)斑鳩寺火災焼失の後、「百済聞師」三人の合力(百済開法師・圓明師・下氷新物)が造営に関わったとする瓦当群である。一方、伝記記事を裏付ける「素弁八葉蓮華文・重弧文瓦」の瓦が基壇などから出土している。唯一残った旧国宝の創建塔は、一辺13m・高さ1mの二重基壇で、お碗状の舎利坑が穿たれた心礎は2.3mの地下式で、法起寺塔より古い様式とも指摘されていたが昭和19年落雷で焼失した(塔心礎の実物大模造が庫裏入口境内にあり)。

 この地は太子妃「菩岐々美郎女(ほさきみのいらつめ)」の父「膳臣賀拕夫(かしわでのおみかたぶ)傾子(かたぶこ)」の勢力圏(平群評夜麻里)であり、膳三穂娘が壇越で寺務高橋朝臣(膳氏)であることからも膳氏の氏寺として創建された可能性も考えられる。講堂は発掘調査を経て、昭和35年元位置に仏像保存施設として鉄筋コンクリート造りで復原された。

 本尊は重文飛鳥佛の薬師如来坐像で、ひときわ大きい重文十一面観音立像(藤原)が講堂本尊。その他講堂出土重文鴟尾残决・重文虚空蔵菩薩(飛鳥)諸佛が並ぶ。諸佛(重文弥勒菩薩〔聖観音〕・楊柳観音菩薩・重文地蔵菩薩・吉祥天立像・米俵毘沙門天像、釈迦如来坐像・四天王立像〔塔安置〕)は藤原期の寺勢を示すが歴史は詳らかでは無い。

 その後も寺運衰えるが、近世の再興は寶祐上人により享保年間より興る。後方の妙見山から享保16(1731)年移築した妙見堂の妙見菩薩「日本最初北辰妙見尊星王・聖徳太子感得」の庶民信仰(北極星の現生利益の諸願成就佛)に支えられ、旧講堂・金堂(寶暦11〔1761〕年)も元位置に大坂商人の寄進を見て寺観を維持してきた。天井に星曼荼羅を描いた新妙見堂も四半世紀の時を経て妙覚師の尽力により平成15年落成した。中・近世遺構として、天正15(1587)豊臣秀長設置の「下馬石」、勝手口になっている西門の土上門(県指文)は、茶室と共に必見。

 寺にとって塔再建が戦後の悲願として管首慶覚師・康世師2代の住職が発願・勧進、資金難が続く中、作家幸田文氏(1904~90・露伴〔1867~1947『五重塔』1892〕の次女・〝親(父)が紙の上の文字で建てた塔のおかげで、ご飯を食べてきた私なんです…これはもうお手伝いしなきゃならない〟『塔のこと』1973)、鵤寺大工西岡常一(1908~95)・愛弟子小川三夫氏など全面協力もあり、昭和41年に檜材が整ってから10年を経た昭和50年に至り元の位置に創建様式で落慶を見ている。現在は、法隆寺末聖徳宗として康世師の妻女・井ノ上妙覚長老・妙康師が住職で法燈・法輪寺文庫を守られている。

【freelance鵤書林28 いっこう記】

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