旧片桐町(現大和郡山市小泉町・昭和32年編入)は、中世衆徒小泉氏の本貫地であり、近世片桐小泉藩の陣屋と城下である。
小泉氏は、龍花院(正暦寺)新田〝下司〟として登場し、中世期〝興福寺大乗院方〟の被官としてこの地を支配した。「額安寺文書」の貞和6(1350)年3月13日記事に「小泉出雲殿」が見え、南北朝争乱期には〝越智党〟小泉氏が活躍する。後、高山氏・豊田氏と共に〝奈良官符〟であり、筒井氏の傘下に入った事が分かる。
戦国末期の城主は「小泉四郎左衛門重順」で、筒井家配下17人衆組頭を勤め小泉・鳥見・三碓を領有し2千石の知行であったと言う。永禄4(1561)年2月26日大和へ進駐の松永弾正久秀により、激戦3箇月5月29日に落城。18歳の重順以下重臣17人が切腹最期を遂げたと記録されている。
時は流れ、慶長5(1600)年9月の関ケ原合戦後、徳川の世に大坂城から茨木城へ退去した賤ケ岳七本槍の一・兄片桐東市正且元(かたぎりひがしのいちのかみかつもと)は、龍田藩2.4萬石(元和1[1615]年4萬石・元禄7[1694]年無嗣断絶)と弟片桐主膳正貞隆(かたぎりしゅぜんのかみさだたか)は秀頼から8千石弱の加増をもって慶長6年ここ小泉に1萬石余(元和3[1617]年秀忠1.5萬石余朱印状・2代貞昌が弟に3千石分与で都合1.2萬石余)の知行をもって近世片桐石見守小泉藩が成立。
元和9年以降陣屋を構え、明治4(1871)年の廃藩置県まで12代に亘って小規模ながら小泉城下町を奈良街道に沿って形成した。それが今の市場(村方)、西方・本町・中之町・北之町(町方)である。大手路は北之町の現簡易郵便局から西に入路である。
北の町はずれの小丘に2代藩主貞昌(さだまさ)・号石州によって寛文3(1663)年、藩祖貞隆菩提寺建立「円通山慈光院」(臨済宗大徳寺派・石州好みの茶室・書院借景庭園[重文・史跡名勝]・伝茨木城楼門移築の山門(茨木門)有り)が設けられ、徳川4代将軍家綱の茶の湯指南役を務める。後将軍家・大名に〝分相応の茶〟を説いたわびの神髄の茶道「石州流茶道元祖」となり、寺は藤原期の釈迦如来像・宗関公木像・達磨太子木造を安置し片桐家香華の寺となるのである。
✤「小泉」の地名の起こりは、茶人に愛された弘法大師空海掘削の「小白水」の井からだと言われる。矢田丘陵よりの支脈小泉丘陵の西、バイパス県道郡山斑鳩線の側道端で現在は完全に枯れ、善福寺(小泉氏菩提寺)住職の尽力でコンクリ井桁と小さな石碑が道路脇にあるが知る人はまずいない。涸れた事のない水は清らで美味、藩の茶用の水はこれに限ったといい、井戸に至る専用路もあったらしい。
✤長刀池に隣接して片桐邸高林庵と称する隅櫓風民家があり面影を作り出しているが、陣屋址はもう少し東で、あくまで模擬建物である。現在小泉神社に残る藩主・家臣奉納の石灯籠・正面狛犬の鎮座の移築高麗門が唯一の遺構である。
✤慈光院は、抹茶・お菓子付拝観料1,000円。金閣寺住職の鳳林和上が記した日録に「小泉名物油不入素麺」とあり、自称伝承料理研究家奥村彪生が再現したのが「石州麺」である。
【freelance鵤書林126 いっこう記】
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